2007年10月2日火曜日

ブログ・絵巻三昧

八月の下旬から今年に入ってからの二回目の東京生活を始めた。今度はやや長めの滞在で、来年の四月終わりまでという計画である。

当面の課題は絵巻の研究。しばらくはこのブログを休止にして、絵巻にまつわることを書き記してみたいと思う。興味のある方は、ぜひそちらへお立ち寄りください。

I am in Tokyo again. This time, I am doing research and the theme is on medieval Japanese picture scrolls. If you are interested in that topic, please take a look at my new blog, 絵巻三昧, it is all about Emaki.


2007年7月3日火曜日

発言・失言


日本を賑わせる政治事件がまた一つ伝わってきた。晴れて「省」に昇格されたばかりの防衛省の最初の防衛相が「(原爆投下が)しょうがない」と講演で述べたことにより、辞職をした。

新聞やテレビは、もちろんいずれもこれを大きく取り扱う。さまざまな立場にいる政治家や有識者、一般民衆が各自の意見を述べる。だが、それを読んだり聞いたりしているうちに、事件の内容を伝える言葉の選び方には、なぜか違和感を感じる。いわば「発言問題」。事件の捉え方は、この言論を批判する政治家も民衆も、防衛相を庇おうとする首相も官邸も、そしてそのように述べた本人も、一様にこの言葉を使う。さらに不思議なのは、事件の結末が決まってからの、一部の新聞の報道などは、「失言」とまで述べたものだった。

考えてみれば妙なものだ。政治家というのは、いうまでもなく言葉をもって社会のための役目を果たす。一人ひとりの政治家が選ぶ言葉は、ほかでもなくその人の考えを伝えるものであり、その人の信念のはずだ。政治家の発言は、一言たりともたまたま口に上ってしまったようなものでは困る。人前で述べたものなら、本人はそれなりの責任を持たなければならないし、社会はそのように期待してしかるべきである。そもそも本人もそのような自負を持っておかなければならない。したがって、ことの本質は、けっしてなにを話したか、どの言葉を選んだかという「発言」にあるのではなく、その発言によって表された考え方なのだ。すなわち、一人の政治家としての意見、見解、見識なのである。

防衛相は、「しょうがない」という見解を持っているがゆえに、社会の常識に反し、そのために政務を続けられるほど信用されなくなる。したがって職務から離れる。これがこの政治事件のほんとうのありかただろう。ならばなぜ「見解」というような捉え方をしないのだろうか。本人の弁解的な言い方ならいざ知らず、これを真正面から批判する立場の人、メディアでさえ、まるで不本意なことを言い間違ってしまったかのように表現しているという、ここに見られる言葉表現の仕組みには歯がゆい。

あるいは、日本ならではの遠慮や配慮でも、表現者の心の揺れを作り出しているのだろうか。

There is a political scandal in Japan in these past three days and it ended as the result that a minister resigned from his position. Although the reason for this event was that this minister publicly stated an opinion which is clearly against the common sense, however it has been taken only as a problem of "a (wrong) statement".

朝日新聞の記事

2007年7月1日日曜日

准教授

新聞の記事、あるいは友人のサイトなどには、見慣れていない言葉に頻繁に出会うようになった。大学勤務の職名で、「准教授」という。最初のうちは、これは不注意による文字使いの間違いだとかなり自信をもって思ったのだが、調べてみれば、またまた自分の自信過剰だと分かった。なんと今年の春から実施し始めた「学校教育法」によるものだった。

「准」とは、いうまでもなく「準じる」ことを意味する。ここの場合、すなわちいまだ教授ではなくて、それに準じて、ほぼ教授になる、ということだろう。「准教授」の次は、昇進して「教授」になるものだから、教授よりは一つ手前のステップ、あるいはポストと考えてよかろう。だが、新しく実施した教育法は、「助教授」というのを止めてこの職名を用いたものだ。その理由は、順位からにして教授より一つ手前の職でも、独立して指導や教育に当たるものだから、「教授を助ける」という言い方は望ましくない、との考えなようだ。長年続けてきた大学教員の仕組みのなかで、「助教授」とははたしてここまで字面から使用されたり、理解されたりしてきたものかと、不思議に思った。

それよりも、以上の考えをそのまま取り入れるとしても、はたしてどうして「準」という文字を使わないで、わざわざ難解で用例の少ない「准」という文字を選んだのだろうか。これだけすべての大学の人事関係に影響を及ぼす法律の改正で、このような文字選びをしてしまうという、漢字感覚そのものに首を傾げる思いがする。いわば珍しいもののほうが、言葉の新味やインパクトを増す、という考えでも裏に働いているものだろうか。

There is a new name for the old positing of university professors in Japan according to the new Law of School Education. In this name, a rarely used character was given a spotlight.

学校教育法

2007年6月19日火曜日

音声付き作品

当たり前のことだが、サーチを掛ければ豊富な情報と出会えるインターネットでは、こちらから進んで探し求めてみないと、なにも現われてこない。そこでほぼ半分習慣になって、本屋に入って本棚の間を歩き回るのと似たような感覚であれこれと検索をしてみる。その中で気づいた言葉の一つは、「音声付き作品」。こういうキーワードもあるものだと、率直な感想だった。

そもそも日本語の作品は、音声になっているものがあまりにも少ない。二年ほど前からの、ポッドキャストという方法が普及して以来、事情はかなり変わったと言えよう。表現の可能性を探る真摯な個人による発信に加えて、大手の放送局が番組の小さな部分をショーウィンドーのように公開して、日常的に聞くべき内容が大きく増えた。それに朗読を志す人々は、表現のレベルを上げようと切磋琢磨する。このような展開の中で、明らかに抜けているのは、小説などの読み物類を音声化する動きだ。そこですぐに持ち出されるのは、著作権をめぐる議論である。いうまでもなく音声を出版というルートに載せるためには、まさに書物などの著作権を持っている出版社あるいは作者自身が仕掛けるべきことなのだ。いまのような、ごく小部数の出版と、普通の消費者が手の届かないような値段の設定は、とてもそれを広める方向を示しているとは思えない。

このことを友人と議論すれば、日本人が読書を習慣としても、朗読を聴くを受け入れないのではないかととの考えを聞く。そうなのかもしれない。でも、逆のことも言える。ストーリを音声をもって楽しむ伝統は、昔からたしかに認められる。そして、読書を置き換えるのではなく、それと棲み分ける、読者の違う時間とスタイルに応えるということは、まさに新しい習慣として望まれることだ。

音声による読書は、きっと広まる思う。そのような展開は、いつ、どこで、どのようにやってくるのだろうか。これに関心をもつものとして、どのように寄与できるのだろうか、よく自分に問いかける質問である。

With the development of Podcast, we became to be able to access to many aural materials. However, it is still the case that, comparing with the English world, there are much fewer such materials in Japanese.

しみじみと朗読に聴き入りたい
Blog 表現よみ作品集

2007年6月14日木曜日

感情労働

まったく聞きなれない言葉だが、「感情労働」が議論されているそうだ。いわば「体力労働」「知的労働」に対するもので、雇用関係においての、体力あるいは知力を賃金の代償として支出する代わりに、あるいはそれと共に、個人的な感情もそれに数えいれる、との考え方である。フライト添乗員をはじめ、接客業の仕事にはこれがつき物だとされる。そして、教師、国家公務員など公の場にいる人間は、仕事の立場から自分の感情を押さえて勤めなければならないというありかたが、この議論の引き金となる。

労働という概念は、そもそも西洋的なものであり、ここに感情を取り上げるというのもアメリカの学者が言い始めたものだとのこと。しかしながら、実感としては、個人というものを無にして仕事に携わり、言葉遣いをまったく非日常的なものにしてまで、客にサービスを提供するという姿勢を明らかにして役目に向かうという、一種の誇張した仕事の倫理は、日本でこそ強く、広くみられるものだ。短期間の日本訪問などとなれば、そのような光景がとりわけ目に焼く。そのようなまるで仕事場における自身の晴れの姿とでも受け取り、それを誇らしげに見せようとする振る舞いは、幾度となく「日本的だ」と感心したものだった。それに対して、カナダとかのようなところでは、そのような努力をしない、あるいはそれを追求しない、という姿勢だ。あるいはそれが日常ではないだけに、西洋の学者がそれを敏感に感じとり、意識敵に取り上げた、ということだろうか。

知識も体力も、なにかを代償にもらって、他人のために使ってあげる、ということは、労働という概念の基本だろう。その意味では、感情とはいたって個人的なもので、なにかとの交換には抵抗を感じるだろう。これを労働に組み入れてしまうと、とたんに変質をもたらす。さらに言えば、消費者の立場から言えば、他人の感情まで消費しているというのは、いったいどういうことだろうか。

This is a Japanese translation of the concept "Emotional Labour". One has to say that there is a much stronger working moral or style to hide personal emotion in a working position in the Japanese society.

労働の科学

2007年6月11日月曜日

禁止表現


人に特定のことをしないように指示する禁止表現。どの言葉においてもこれが微妙なものだ。指示をはっきりしなければならない。だが、望ましくない行動がすでに発生したというわけではなく、表現そのものをできるだけソフトで丁寧にしなければならない。言い回しと発想の妙が競われる。

言語教師という立場上、表現をついつい形の上から分類をしはじめる。初心者も分かるような文型なら、「てはいけない」「てはならない」をまずあげる。「ないでください」と続ける。「○○するな」も分かりやすいが、ただし用途が限定されていて、日本語クラスでは意外と多くは取り上げられていない。また、街角に張り出される看板類になれば、「○○禁止」「○○厳禁」となって、漢字の語彙を用いる。このようにあげていけば、さらにいくらもパターンがあるに違いない。

おそらく一番日本語らしい禁止表現は、「○○をご遠慮ください」ではなかろうか。いわば漢字を用いた和語で、その発想もじつに遠まわしをしていて、かつはっきりしている。さらにいけば、「禁煙のご協力をお願いします」のような文句になると、禁止の指示をしていながらもすでに禁止表現から離れたと言わなければならない。

Occasionally we see a public note such as "Thank you for not doing..". In Japanese, there are rich expressions to carry out this very similar idea.

2007年6月9日土曜日

語学留学


一ヶ月にわたる短期語学留学はあっという間に終わった。留学の正式な終了日は六月七日。しかしながらその日に東京から離れてカルガリーに戻ってきたのは、なんと引率の私ともう一人の学生だけだった。その学生も八月に一年の交換留学を控えての、言ってみればカナダへの「一時帰国」だった。残りの生徒たちは、短い日本観光、あるいはアジアの国へと、元気よく旅を続けている。

わずか一ヶ月の留学だったが、学生たちはほんとうによく頑張った。よく学び、よく遊び、よくしょべる。睡眠を、食事を飛ばしても、クラスやレポートの締め切りをきちんと守り、そして仲良く助け合った。いったいどこからそのような元気が来たのかと、つくづく不思議に思った。若ものたちのパワーを改めて認識した経験となった。

戻ってきてからは、「学生たちの語学力がよくなったか」と、周りから何回となく聞かれた。どうだろうか。あるいは、そもそも語学というものは一ヶ月で激変するようなものではない。どんなに優れた勉強の仕方でも、学習者を短期間に見違えるほどの飛躍を与えるようなことがないとひそかに信じている。ならば語学留学の真価はどこにあるのだろうか。学習者と学習内容との距離をいっぺんに縮めた、ということにあるのではなかろうか。すなわち語学にどんなに自信のない人でも、本ものの外国語の環境の中に放り込まれてしまえば、なんとかなる、話せば通じる、努力すれば上達に繋がる、という実感を身に付けるものだ。語学の飛躍があるとすれば、このような実感が一つの大きなステップに違いない。

学生たちの成長が待ち遠しい。

このようにして、この小さなブログも一通り当初の予定を完成した。書いていながら、楽しい時間を過ごせた。しばらくはこれを続けるようにしよう。更新の間隔を開いて、思いつきを記し続けよう。

The Credit Travel program has completed on June 7th. It was a great program and the most valuable thing is the real experience for each student to learn and to use the language in the real life. This will be an important step for the students for their future learning.

フォト日記

2007年6月6日水曜日

君とアリエール


日本にいないと、テレビコマーシャルが目に、耳に飛び込んでくることはまずない。インターネットなどからは、コマーシャルそのものを見ようと思えばできないことはなく、一昔まえの環境とはかなり違うようになった。しかしながら、コマーシャルはやはり無防備で無作為に入ってくるべきものだ。それだからこそ、繰り返し聞いているうちに、気づいてくることがある。

その中では、頻繁に登場し、かつおおかたよい印象を残しているのは、「君とアリエール」だ。洗剤の広告だから、これからの露の季節に向けて、いっそう露出度が高くなるだろう。

このキャッチフレーズの妙は、いうまでもなく言葉の響きにある。商品名はこの広告の設定のために付けたのだとはとても思えない。でも、とにかく聞いていて、心地よい。暖かい家族の中での「君」と「アリエール」、そして「君とあり得る」。このように答えまで書いてしまえばどこか落ち着きのなさも感じさせるが、フレーズの響きはそのような連想をはっきりと誘い出そうとしている。

このような言葉の遊びは、日本語の中では一つの定番だ。コマーシャルの作りにも枚挙に暇ない。古い考え方でいえば、掛詞。しかしここではおそらくそれにも当たらない。言葉のしゃれ、場合によっては駄洒落、といったところだろうか。

コマーシャルの終極の目的は、商品の認知度を植えつけることにある。その意味で言えば、新しい言葉を作り出すのも、言葉遊びをやってみせるというのも、あくまでも手段だ。そのような手段がもしも商品とともに大当たりをし、新しい言葉を作り出すことがあれば、それはすでにコマーシャルの役目を大きく上回ったことだけを記しておこう。

To mean two things at once, or to hint another issue with one prepared expression, this is a basic embellishment in Japanese. One can find many examples in TV commercials.

アリエール

2007年6月5日火曜日

熟成多加水麺


カタカナ言葉についての話題が続いた。今日は漢字言葉をとりあげる。

街を歩くと、看板の数はさすがに多い。そして、あまりにも情報が溢れていて、その中では明らかに必要としない、交流や伝達にはほとんど意味を持たないようなものがある。眺めていて、考えてみればみるほど、戸惑いを感じざるをえない。

たとえば、これは中華料理のチェーンの店に貼り出された広告の一部だ。麺の材料を説明している。「国産小麦粉」というのは、品質に拘る消費者への訴えとして頷ける。ただ「熟成多加水麺」とは、いったいどういうことだろうか。小麦粉を麺に仕立てるために、水を多用して、熟成させるといったような特別なプロセスだとの説明がサイトに載っている。そのような処理はきっとおいしさに関連があると素直に信じるとしても、一つの表現としては、どうしても抵抗を感ぜずにはいられない。漢字の並べ方は、日本語表現の基本に従っていない。もちろん中国語とはほど遠い。そもそも、「ジュクセイタカスイメン」とでも読むのだろうか。口に出して読めば、まずは確実に通じない。このようなフレーズを案出した人は、きっと口頭での伝達など、最初から考えていない。残されたのは、むしろ読めそうもないという言葉になんとなく高級感を求め、漢字の羅列に視覚的な効果を期待したのだろう。

はたしてこのような情報伝達の方法、漢字羅列ということへの感覚、どれぐらいの人が共鳴を持ちえるのだろうか。

Many new kanji words are created and introduced into the daily use every day. However, some of them do not have a strong potential of communication. Here is one such example.

ラーメン館

CAJLEニュースレター

学生たちとの語学研修の間にも、カナダでの日常的な仕事も続けている。その一つは、CAJLEニュースレターの編集である。素晴らしい編集チームの共同作業で、夏の号は時間通りに作成できた。わたしが担当しているコラムでは、このブログについて記してみた。カナダの日本語教師もこのブログを読んでくれることを願いつつ。

CAJLEニュースレター・巻頭言

2007年6月3日日曜日

アイリバー


電気製品をショッピングするのは、日本での短い滞在の楽しみの一つだ。店員たちは、みんなしっかりした知識を持っていて、対応が丁寧だ。それでも、普通はカラフルに用意されているパンフレットをじっくりと読んで吟味し、店員とたくさんの会話をしない。そこで、いざ口を開いてみれば、やはり日本語になっていない製品名に戸惑いを感じる。たとえば、今度、とても気に入った音楽プレーヤに出会った。名前は英語表記で、いかにも今風の「iriver」。それをついつい英語発音にしてしまい、店員はさすがに要領がよくて、すかさずカタカナ言葉で確認をしてくれた。「アイリバーでございますね。」言われてみれば、自分の要領なさに苦笑いした。

考えてみれば、この言葉には、英語のカタカナ発音のルール、特徴と問題点をすべて含んだと言えよう。「i」という母音は日本語になく、「アイ」という二つの母音に置き換える。一つの音が二拍になって倍になるが、もともとの発音に近い。「ri」にある母音は日本語にあるが、「r」はなくてつねに「l」と発音するから、自然と「リ」にする。「v」はなくて、日本語の子音の中で一番それに近い「b」に置き換え、「er」はなくて、「a」と「e」の中から近いほうを選ぶ。おまけに一つの母音が二つに、弱く発音した音節が強い一拍になったので、強く発音する最後の音節には倍の長さを与えて、長音とする。あわせて、アイ・リ・バー。

とても自然的な展開だ。ただし日本語になったものなので、英語での発音を持ち出したら、それこそヤボで、通じない。あたりまえの話だ。

While an English word being brought into Japanese and read in katakana, it has to follow Japanese rule of pronunciation. "iriver" is a perfect example to explore a few such basic rules.

iriver

2007年5月31日木曜日

~てほしい


これははたして一連の金属盗難の一件だろうか、それとも奇抜な盗賊物語に入るべきものだろうか。かつてテレビコマーシャルにまで登場したことのある黄金風呂が、丸ごとそのまま盗み出されてしまった。テレビ画面には、被害者のコメントが映し出される。かなり動揺した様子が、話し方に滲ませる。そしてそのハイライトには、つぎの発言があった。

「返してほしい。逮捕してほしい。」

これは、いうまでもなく自然な日本語だ。普通の日本人は、これを聞いて、被害者への同情がいっそう深まるに違いない。しかしながら、英語圏で生活していて、ついつい言葉を論理的に考えてしまうわたしには、立て続けに述べられた二つの訴えを理解し、その発想に追いつくために、やはり一瞬の空白を持った。この人が切実な表情をもって声を絞り出しながら語ったのは、まったく対立する立場の二つのグループの人間だった。いわば、犯人には、同情心をもって思い直して、盗んだものを返すように、そして警察にはさっそく行動して犯人を検挙してもらいたい、とのことだった。

日本語の中では、誰が、誰に対して、といった表現の要素は、言語の形よりも、言語の内容によって判断しなければならない。理屈で分かっていても、実際の用例の前では、やはり戸惑ってしまうことを改めて知った。

A general rule in Japanese is, while the situation is clear, the speaker will do all he/she can do to not indicate persons involved in the action. This is a rather extreme example.

黄金風呂

2007年5月30日水曜日

救済

これはかなり使い方の限られた言葉である。だが、ここ数日の日本の新聞やテレビにはこれが頻繁に登場し、さまざまな角度から議論されている。すなわち、五千万に上る人々の払った国民年金が行方不明になり、これをどう対応すべきかとのことだ。政府与党の提案では、特別法案を作り、これらの人々を「救済」する、ということである。

この言葉を始めて新聞などで読んだのは、すこし前の、いわゆる中国残留孤児についてのころだった。すでに老年に入ったそのような人々の生活環境のことがマスコミに取り上げられ、政府はいち早く「救済」との対応を打ち出した。政府からの助けの手があるものだと、日本のあり方を眺めながら、救済という言葉も妙に感銘を受けたと覚えている。

それに比べて、今度の場合、言葉としてむしろ唐突だ。そもそも年金の支払いを受けている政府自身の失敗だから、それを改めるというのが筋だろう。さらに言えば、礼儀を重んじる日本のことだから、謝りをし、弁償をする、ということまで考えられるのではなかろうか。そのようなところで、どうして弱者を助けてあげるというような文脈での用語が用いられうるのだろうか。支払いの記録がなくなったと言っても、もらったお金があるはずだから、なおさらその裏の理屈が分からない。

政治の世界に限らず、言葉は語彙の選択一つによって、物事の性格はがらりと変わってしまう。そして、だからこそ言葉に敏感な人はかならず意見を申し立てる。ことの推移を見守りたい。

A recent political issue is that, records on the payment of the National Pension for some 50 million people have been "lost", and to respond to this, the Government has a discussion to "save" the people who are intitle for the credit of the payment.

国会TV

カロリーカッター

朝起きてテレビを付けたら、料理の話題を早々に取り上げられている。人物紹介のコーナーらしく、カロリーを減らすという工夫が話題になっている。アナウンサーが連発するカロリー、カットといった言葉に混じり、スクリーンには、「カロリーカッター」と出ていた。読んでいて、思わず苦笑いをしてしまった。

思えばあまりにもいい加減な造語だ。英語の言葉を模擬っているというところだろうけど、そこで、日本語の語感はどうだろうか。なにせ「カッター」という普通の言葉になった外来語があるものだから、ここでの活用はいかにも唐突で、誤解を呼びやすい。このような造語を生み出し、あえて選び、興味津々に使うということは、興味深い。

活用と言えば、たとえばつぎのような用語も思い出される。「トラブった」。こちらのほうはいわば日本語の文例をなぞった活用の例だ。ただし「トラブらない」「トラブります」と聞いたことがない。あくまでも軽い気持ちで、楽しく言葉をいじった、といったところに、特徴があった。

言葉の表現は、通じることを大前提とする。その上、言葉遊び、言葉を気楽に置き換えたりして発想の奇を見せ、もって余裕を見せる。逆を言えば、正しい言葉、長続きの表現、ということを最初から目標としない。そのような言葉遣いの心構えをここ読み出したような思いがした。

Although they are called loan-words, many of them are not simply "borrowed" from other language. In stead, people may want to add certain changes to make the expressions colorful and fun.

独学英語道場

2007年5月27日日曜日

萌え~

週末になって、学生たちのグループの一つは秋葉原へ出かけた。一昔なら、免税品や掘り出し物の電化製品を目指す、というのが常識だったようだが、いまの若者には、そういうものが最初から目にないみたい。代わりに最初から堂々と宣言したのは、ずばり「メイドカフェ」だった。

電化製品とメイド、あまりにもミスマッチに見えてしまうのは、私だけだろうか。最初からジェンダーを消したところから生まれた、国籍も年齢も不明なアニメキャラクターには、どこにいまごろの若者をひきつける魅力をもっているのだろうか。これを文化の現象として考える人が多い。そしてなによりも一つの現象として現にそこにあるものだから、それを確認し、追認識して、あれこれと議論を展開してしまう。あるいはそれ自体、すでにいたって文化的な現象かもしれない。いずれにしても、不自然な発音法による、「萌え~」の連発、店に入れば、「お帰りなさい、主人さま」との掛け声、そして膝つくまでのポーズなど、一つひとつ感覚的に追いつかない。

考えてみれば、言葉って、長続きを前提に存在するとは限らない。その逆のケース、一過性のものだからこそ、言いようのない魅力と、一度は体験してみたいという衝動を掻き出すということもありえよう。それが流行という結果に繋がったのだろうか。

Students are aiming Akihabara, but not for electronic products. These days, pop-culture, along with unique expressions, forms another face of Japan.

秋葉原におけるメイド喫茶・コスプレ喫茶の歴史

2007年5月26日土曜日

ボディーランゲージ

今日のタイトルの言葉、そのままでは日本語になっているのだろうか。普通の人なら、おそらくもうすこし言い換えてみたくなるような気持ちをもつところだろう。かと言って、「身体言語」、あるいは「身振り手振りで」と言い換えたところで、すっきりなるものでもなさそうだ。英語の語彙としては非常に身近に感じられるもので、その分、日本語ではさほど特別に捉えられていなくて、一つの言葉として認知されていないと言えよう。

「ボディーランゲージ」には、大きく考えれば二つのグループに分類できるかと思う。一つは無意識のうちに言葉の表現にしたくない、するつもりのないものを体で表してしまうこと。もう一つは言葉で表現しきれないものを動作でもって補ってみること、である。前者は警察による容疑者の尋問を思い出せばすぐ分かるものであり、後者はまさに「身振り手振り」という表現が指すところだ。

日本人の、さらに言えば日本語話者による「身振り手振り」のボディーランゲージで、つねに話題になるものはいくつかある。たとえば人の前あるいは人々の間を横切るときの、片手を前に持ち上げながら差し出すポーズ。日本語のクラスや日本語のテキストにまでときどき取り上げられるぐらいの、日本的なものである。それから、けっして「面白かった」と意味しないから笑い。テレビを見ていても、時にはプロのアナウンサまで含めた登場人物たちの、意味のない笑いには目を見張る思いだ。いうまでもなく、日本語を共通言語とする環境のなかでは、それ自体が一つの風景になっていると、目に映るものだと付け加えたい。

A English speaker may feel that Japanese speakers laugh a lot. In fact, for many situations, such laughter do not indicate that "it was fun".

言葉の散歩道

2007年5月24日木曜日

無印・むじるし・MUJI


学生たちの研究レポートには、MUJIという店の名前が出てきた。無知な私の目にはまずは一つのなぞとして映った。こんな名前の店、それもどうやら有名そうで、何だったっけ?本人に聞くよりも、まずはインターネットで確認してみる。そしてめでたく一つ勉強になった。なんのことはない、「無印良品」のことだった。学生たちは英語でのレポート提出なので、りっぱに正しい書き方をしている。そして、おかげで店の名前を目で読んでいるばかりで、口に出して話したことがないだけに、「むいん」と言ってしまうような恥をかかないで済んだ。

それにしても、MUJIという英語のネーミングは、日本語話者には、はたしてどのように感じられるものだろうか。一つの人為的な英語の言葉としては、言いやすい、すぐ覚えてしまう、これといった誤解を招くようなほかの語彙はそうはない、といったような利点はたしかにある。そして日本語の言葉を全部出してしまえば、MUJIRUSHIと、いっぺんにRUとSHIという、二つの英語話者には通じない音が入ってしまう。そういう意味では、ネーミングとしては傑作だと言わなければならない。ただし、日本語話者にとっての、言葉の半分を切り捨ててしまうという違和感、「ムジ」という言葉の響き、どう収拾をつけたらいいのだろうか。わたしの独りよがりの杞憂に終わりたい。

そういえば、日本語には、重箱読みという読み方のルールがある。「重箱」とは何ものかと、およそほとんどの人にはもう通じなくなった。これからは、「無印読み」だと言い置き換えてみるのも、一つの手かも。

"MUJI" is a famous chane-store in Japan. In fact, the name of the store in Enslish is only half of it in Japanese.

MUJIAWARD

2007年5月21日月曜日

プロ意識


友人と雑談して、つぎのような見解を聞いた。「日本人気質の一つは、そのプロ意識にあり」と。言い得たりと、感心しきりだった。

言葉使い、日本語の語彙などをとりあげてみてもそのような実例にはいくらでも出会う。理髪店に入り、ヘアカットを待っている間に、なにげなく傍に置いてある雑誌をめくってみれば、カットを頼むにあたっての用語は、絵を添えて細かく解説してある。明らかに美容師との会話以外では、おそらく絶対に必要のない言葉だが、それでも理髪店、美容店に入れば、知っておいて「得」、というような前提で編集されていた。読んでみて、だれでも準プロになれるといった錯覚を持たせてしまう、不思議な文章だった。

思えば、どのような国、文化の中でもプロがいる。そして、そのようなプロの人々の間にしか通用しないような言葉がある。しかしながら、そのような言葉を自分なりに理解し、応用し、それをもって、一人の人間がさまざまなプロの分野に立ち入ってみたいという願望を持つ、というのが、日本的なものかもしれない。

Every professional field has its own vocabulary. In that sense, Japan is unique that many normal people tend to learn and to use real special expressions.

用語集

2007年5月20日日曜日

表札

表札とは、典型的な日本の風景の一つだ。いったん街裏の路地に入ると、大小の玄関の脇に掲げられた表札は、その家の家主の名前を書き込み、道行く人を見つめる。ぴかぴかと光っているもの、風雨に晒されて年月を感じさせるもの、それぞれ違う表情を見せて、あまりにも日本的なものだ。

ふと考えてみれば、そのような表札だって、時代の流れとともに多くの変化を見せている。すこし昔からのものなら、一家の主を記すだけに留まらず、夫婦の名前を並べて掲げ、とりわけたまに夫婦別姓の場合など、やはり目を引く。いまなら、名前よりも苗字だけという様子がぐんと増えた。それもローマ字表記が多く見かけられるようになり、表札のもともとの役目が薄れてゆく。やがて個人情報保護などの意識から、表札自体が消えたり、あるいはほかのなにかの形に取り替えられることでも起こりうるだろう。

学生時代の一つの思い出がある。クラスメートの中ではめでたく結婚して、一軒家を借りて住む友人がいて、みんなから羨望の目で見られていた。その友人が新居に引越しして早々、表札を書くようにとわたしに頼んできたのだ。なぜか恐縮しきったことだけはいつでも思いに残った。

This is a very Japanese view: each house has a plate with all the residents' name right in the front of the gate.

(この記事について、はじめて読者のコメントをいただいた。表題となる言葉の間違いを指摘してくれた。感謝。さっそく直した。)

2007年5月18日金曜日

「がんばります」


分かってはいるが、実際に生活してみて、まわりには「がんばります」という表現はやはり多く飛び交う。「がんばる」、「がんばろう」、「がんばって」。多くの場合、これを含め会話は真剣味も中身も伴わない。あくまでも挨拶なのだ。テレビをつければ、風水師が自分を頑張らせるためにという理由で仕事部屋を真っ赤に飾りつけ、コマーシャルの中では、一つひねくったキャッチフレーズとして、「頑張り過ぎない勇気」を用いる。

さてこれをどれかの外国語に訳そうと思えば、おそらくはまず一苦労。「ファイト」というのは、同じくコマーシャルのフレーズとしてずいぶんと楽しまれているのだが、これを英語話者に向かって発言してみれば、まずは怪訝な目で見返される。大げさにいえば価値観、文化の差、ということだが、そのような要素がすべて加算され、沈殿されたものが、このような挨拶用語に結集された、と考えられよう。

週末には、学生たちは一人ひとりホームステーに出かけた。日本語も文化も、そして人間もまったく知らないところに投げ出される思いで、一様に緊張しきった気持ちだった。そこで友人から掛けられた別れの挨拶は、「頑張って」でも、「行っていらっしゃい」でもなかった。「楽しんでください」というものだった。かれらに日本語を教える人には、ほほえましくて歯がゆい場面だった。言葉の正しい、間違いには、どこで線を引くべきだろうか。

Students were all very nervious while they were leaving for a homestay. The greating they exchanged at the moment of leaving was not "gabatte", but "tanoshinnde". It was an interesting moment to their language teachers.

あだ名

テレビから拾った話題を一つ。

「あだ名」が取り上げられた。もともと生活の至る場面、いろいろな段階でだれもが経験しているものなのだが、どうやらこれがビジネスにまで姿を現したのがニュースになった理由のようだ。会社の営業マンたちは、自分に「プラン太郎」だの、「カロリー花子」だのといった名前をつけて、これを名刺にまで印刷して、会社内外で使うようになった。いかにも営業らしい努力がにじませるような話題なのだ。

名前といえば、異なる文化の中ではその様相が大いに違う。中国なら、名前は時代の変化を映し出すものとして、その付け方や内容がどんどん変わる。カナダなら、移民の国らしく、多くの人はニックネームという軽い感じで自分に名前を付けて、読みやすくして、かつ男女の情報を対面するまえに相手に伝える。自分が実際に体験している文化が限られているが、もっともっと豊かな伝統やしきたりがあるはずだ。それを思い出せば、営業のためのあだ名って、いかにも日本のことに思われる。

眺めなおせば、ここでいっているあだ名とは、名前ではなくて苗字なのだ。日本の文化では、あだ名なら苗字として付けられるものだと、改めて気づいた。

The morning news was talking about a new trend of nicknames: people are using them for marketing promotion. In this case, people found a new nickname for his/her family name!

四こま:あだ名色々

2007年5月16日水曜日

ポイ捨て・白い象


今日は、一つ答えのないことを記して見る。

学生の一人が新宿の街角で撮った写真を持ってきて、説明を求めようとした。右の写真である。しかしながら、わたしにはさっぱり分からない。これはいったいなにを意図しているのだろうか。

標識の言いたいことは、およそ見当がつく。ポイ捨てと出ているから、空き缶などが対象になるだろうけど、ここではおそらくとりわけタバコの吸い捨て、歩きタバコのことを指すかと思われる。だが、そのような文脈には、どうして白い象が登場しなければならないのだろうか。インターネットで調べてみれば、新宿区、象のマーク、クリーンカー、など、これの裏づけとなる記事は何点も出ている。その中の一つは、象の形をしたクリーンカーを先頭にした街頭行進の写真まで載っている。でも、ここでは象とはどういうことをイメージにしているのだろうか。しかも標識では、それが禁止マークの輪の中に置かれている。いくら考えても思いつかない。街角の宣伝標識とは、簡単明瞭なはずだから、それを思うほどにもどかしい。

いうまでもなく、答えがないとしたのは、あくまでも自分のことだ。まったく気づいていないところに、意外にシンプルな理由があるに違いない。ご存知の方、どうぞ教えてください。(撮影: Evelyn)

This picture is brought to me by one of my students. It is for a campaign for not walking while smoking. However, why there is a white elephant? I do not have an answer for it.

子どもをタバコから守る会・愛知

内田さんという方からコメントをもらいました。「だめだゾウ」にオチがあるとのことです。これでなぞが一つ解けました。感謝。

2007年5月15日火曜日

プリザーブドフラワー


大学の同僚の一人は、郊外に家を持ち、大自然のなかから花を取ってきては乾燥させて飾りにしている。それが好評を受けているので、友人にもよく分けてあげている。そのようなきれいな花を日本語でどう呼ぶべきかは、ゆっくり考えたことがない。説明しなければならない場合でもあれば、「乾燥した花」と、英語の言い方をそのまま日本語にするだろう。

しかしながら、テレビを見てみると、思わぬ言い方を習いました。プリザーブドフラワーだそうだ。とりわけ母の日にあたる先週の週末あたりは、頻繁に話題に上り、それこそ高級なデパートとかで扱われるような、高級なイメージが伴うものらしい。

それにしてもしっくりしない表現だ。英語の言葉を日本語の語彙にするというようなケースなら、いろいろとあるのだが、このような、英語としても熟していない、場当たり的な表現をそのまま外来語として用いるというのは、あまり芸がなくて、速急ではなかろうか。こういう表現に上品さを求める、感じ取るという感覚には、ちょっと追いつかない。

花といえば、生け花。そのような豊かな伝統をもっている日本語だけに、もうすこし気の利いた表現が生まれないのだろうか。

Dry flower. In Japan, it is sold in an elegant department store and has a name of "preserved flower". To my mind, this is rather an extreme example of Japanese lown words.

JPFA

2007年5月14日月曜日

カンバセーション


英語を日常の言語にしている分、英語の単語をそのまま取り入れた長いカタカナ言葉はどうしても苦手だ。たとえば、「カンバセーション」。文字として読めば意味が取れず、かと言って声に出して読み上げてみると、発音がはたしてどこまで英語から脱出できるものやら、はなはだ不安だ。

このような言葉は、日本語としては成り立つものだろうか。パソコンでこれを入力しても一発で変換してくれない。これをタイトルとする有名な洋画があったが、たしか説明するための漢字表記を併用していた。おそらくほぼ通じるが、普通の日本語の語彙ではない、というボーダーラインにあるものではなかろうか。

学生たちが参加している語学研修のプログラムのハイライトの一つには、学生一人ひとりに「カンバセーションパートナー」を指定してくれたことだ。この称呼は、ほかのいくつかのところでも見かけられる。もうすこし「日本語らしい」ネーミングが出来ないのだろうか。「会話友」などは、おそらく無理だろう。考えてみれば、この言葉が表現するものが大いに流行ったとしても、「カンバパ」とかになることがオチだろう。

A word such like "conversation" has become to a Japanese katakana word. It is difficult to pronounce it in a Japanese way, but it seems people simply do not want to find a native Japanese word to replace it.

カンバセーション…盗聴…

2007年5月13日日曜日

漢字


日本の人々は、やはり勉強好きだ。しかもいろいろな分野の中では、漢字をテーマにするものが多い。漢字検定を始め、学校教育から社会人の生涯学習にいたるまで、漢字はつねに勉強する内容のトップに挙げられる。

おそらくこれとはかなり性格や性質の違うものだと思うが、日本語を学習する学生たちも、漢字の勉強で悩んでいる。ここ数日も、じつは複数の学生から、漢字をどうやって勉強したらいいのかと質問された。答えに窮した思いをさせられた。初心者を対象にすれば、漢字の書き方、文字の由来や意味などを記憶させることは、つねに優先課題だ。クラスで教えると、いかにして学生たちに絵を描くように漢字を書くのを止めさせて、これを文字として覚えさせるか、ということで苦心する。しかしながら、日本語をまともに勉強しようと志す学生には、問題は違うレベルにあるはずだ。いまのところ、ともかくつぎのように答えてみた。「漢字といえば文字を書いたり、読んだりとは思わないで、これはあくまでも日本語の語彙の勉強だという気持ちで取り掛かってください」と。どこまで理解してもらえるのだろうか。

一方では、そのような勉強を手伝ってあげたい。どうすれば一番有効なんだろうか。正規の授業には、おのずと限界がある。楽しくやりながら覚えてもらおうと思えば、なにが可能だろうか。学生たちが飛行機のなかでただただゲームに夢中だったのを目撃した。ゲームの店を覗けば、DSのコーナーには、「脳トレ」と称して、漢字をテーマするものは何点も置いてある。可能なアプローチなのだろうか。

A few students asked me how to learn kanji, a true question while they came to the real Japan. How can I help them?

漢字の渡り鳥

2007年5月12日土曜日

ぐっすり美人


電車に乗ったら、広告はやはり多い。満員の車両のなかに身動きもできないままにいると、つい広告のせりふを繰り返し眺めてしまう。言葉表現のサンプルはここにあり、と感じて、いつもながら感心する。

そばにいる学生は、指差して説明を求めてくる。キャッチフレーズは簡単で、「めざせ!ぐっすり美人」とある。初心者の学生なので、どうやら分かったのは、美人だけ。あとの平仮名言葉は、分かりそうで分からないという。命令形だの、擬態語だとと、言語教師なら普通のクラスなら一通りタッチしておかなければならないことを思い切って簡単な形で伝えてみた。そこで、はじめて気づいたのだが、そういった知識を持っていても、このフレーズの意図するところが伝わらないんだ。いうまでもなく「虞美人」という言葉が下敷きになり、その響きがあるからこそ、「ぐっすり美人」が生きてくる。そのようなことは、言語の環境で生活すると、自然に身に着いてくるものだが、これをいざクラスの知識として伝えようと思えば、どうしても無理が出てしまう。

言葉を外国語として教えると、表現と表現のうしろにあるものをどこまでカバーしなければならないことだろうか。いつもながら考えさせられるテーマである。

Here is a very simple catch phrase from a advertisement poster. However, without some culture knowledge, it is rather hard to understand why it is a fine line.

日本語を楽しもう!

2007年5月11日金曜日

「らくがき厳禁」


街角を歩くと、日本はやはり看板が多い。店の名前や広告などもさることながら、静かな裏道などに貼られる公共の看板はまた目立つ。看板そのものは、日本の街の景観を成していて、ときには、その景観を台無しにしたと思えてならない。

看板の書き方には、ルールあるいは嗜好があるのだろうか。あるいはそんなものがないと考えたほうが自然だろう。しかしながら、好まれそうな傾向もみられる。楽しい一例は、かなと漢字の組み合わせ。単純に漢字の使用法、頻繁度などで考えて説明するものではなく、むしろ一つのパターンだ。たとえば「らくがき厳禁」。さらに「ちかん注意」、「ひったり注意」などなど。考えてみれば、漢字言葉をかなに書きなおすことで、人に音を出して読んでもらうという意図はまずあるだろう。それよりも、このようなマイナスな行為の表現については、それを一目で分かる漢字で書かないで、目に訴えることを狙わないかな書きにすることによって、町の景観への最小限の配慮もたしかに働いていることだろう。

さいわい公共の看板には、内容からいえば禁止が中心で、奨励が少ない。奨励ものまで看板になってしまったら、町はこれ以上に文字に埋まれてしまうのではないかと、勝手に想像しながら。

Here is a patten of Japanese public signs, using a combination of kana and kanji. As many of them indicate prohibition of some negative manners, this arrangement plays a rule of softening the impact of the writing.

まちの落書き消し隊

2007年5月10日木曜日

「あ、しあわせ!」


若い学生たちを連れて、一ヶ月の語学研修。いうまでもなく、言葉というものが学習者たちの努力や能力にどれだけ溶け込むか、わくわくして眺めているものである。

言葉を吸収するプロセスはとにかく興味深い。クラスではどんなに苦労して説明してあげても、実際の生活の中での会話のいきいきしたものと比べれば、色褪せをしてしまう。たとえば、よく話題になるのは、望ましくないスラムの言葉を外国語学習者がいとも簡単に覚えてしまうことだ。かれらの言葉のレベルに合わないまま、あるいは無邪気な会話の中にまじっただけに、そのような品のない語彙が耳障りなものだ。しかしながら、一方では、非常に上品で、あるいはすごく気持ちが伝わるような会話も飛び出してしまう。バスの何に乗って、道路標示に出た「渋谷」「新宿」などの文字を見たときの歓声は素直で素晴らしい。初めてのラーメン屋に入ったら、一人の学生はスープを一口飲んで、「あ、しあわせ!」と言った。どこでそういう会話を覚えたのやら、傍で聞いていて、ただただ感心しきり、だった。

学生たちの進歩は、クラスでの講義から得た知識を元にしたもので、そこからの飛躍だと思いたい。語学研修を通じて、学生全員というわけにはいかないが、何人かはその日本語能力が確実に化ける。教える立場にいるものとして、かれらと喜びを分かち合うものだ。

While leading a group of students to Japan, it is always a great joy to see how much they can handle the language, and get the most from this very short period of time.

フォト日記

2007年5月9日水曜日

ニュースレターの投稿

学生たちを連れて、一路東京にやってきた。旅と、時差と、それから学生たちが落ちづくまでの細かなことへの対応、ふだんの生活のリズムに戻るにはすこしは時間がかかりそうだ。

今日のところ、これまでの原稿をまとめたのをリンクしよう。ささやかなニュースレターだが、それでもかかわって4年近くなった。いまだ一読の価値があるのだろうか。

CAJLEニュースレター・巻頭言

2007年5月7日月曜日

マニュアル敬語


昨日の話題を続ける。

あらためて「敬語の指針」を読むと、その中には特別に「マニュアル敬語」という項目を立てた。ここでは、実際に会社の新人などを対象に作成されたマニュアルを取り上げ、過剰になることは望ましくないが、一つの表現のアドバイスとしては機能しているのではないかと、あいまいにして中庸的なアプローチを取った。

しかしながら、巷では「マニュアル敬語」といえば、そう温厚に捉えていない向きがある。その呼び名は、さらに「ファミレス敬語」「コンビニ敬語」「バイト敬語」などとさまざまなバージョンを持つ。すぐに思い浮かぶのは、例の「千円から預かります」といった表現だ。そもそも領収しなければならない場面だから、「預かる」とは内実に合わず、そして手に入れたのはそっくり千円そのものだから、「から」とはいったい何をニュアンスにしようとするのか、理屈っぽく考えれば考えるほどわけが分からなくなる。

このような「マニュアル敬語」とは、あくまでも特定の仕事に従事する人々の、決まった状況のもとでの用語である。したがって、以上のような理屈云々で議論し、ひいては非難したところで、コンビニでの会話を変えることはないことだけは、確かだろう。ここでは、むしろそれを敬語として考えることが、ことの本質をぼかしてしまうのではなかろうか。そのような表現は、むしろ一種の職業用語であり、敬語のあり方についての議論に参加させないことが、有意義かもしれない。

「マニュアル敬語」ではなくて、『敬語マニュアル』と題する本が出版されている。そこでは以上のような表現を取り上げていないことを祈る。

In Japan, at a place such a convinient store, one may often hear some expressions that is rather over-polite. There is a new name for such expressions, "manual honorific expressions".

マニュアル敬語について考える
マニュアル敬語論

2007年5月6日日曜日

敬語


敬語は、一つの日本語の言語現象としてつねに特別視されている。これは日本語を外国語として習う学習者だけに留まらず、これを母国語として話している人々までそのように捉えがちだから、妙なことだ。

そもそも「敬語」というネーミングは、誤解を招く。日本語という言語の体系において、敬語とは、けっして「尊敬を表わすための表現」として捉え切れるものではない。ひいて言えば、尊敬を表わすのは、実際の敬語の使い方のほんの一部にすぎない。教科書通りの敬語で話しかけられていながらも、そこからは距離感だけあって、尊敬されているとは毛頭感じられないといったような状況を、われわれは生活のなかでどれだけ経験したのだろうか。

これには、学生時代の一つの思い出がある。外国人留学生として日本で生活してみれば、こちらから丁寧に言葉を選ぶことがあっても、さすが敬語で接されるような機会がなく、自分もそのような待遇を受けることを望んでいなかった。そこで、言葉の表現に自由を覚えはじめたころ、一つの特別な場において、敬語で話しかけられたのだった。それは、なんと商品の返却をめぐっての、店員とのやや強引な押し問答の中に飛び出されたのだった。「お客さんはそうおっしゃいますけど…」。それを聞いたあの一瞬、表現の本質を垣間見た思いがして、自分のなかではなぜかジンと来ました。

突き詰めて言えば、日本語の敬語とは、尊敬も含めたさまざまな人間関係、とりわけ人間の距離をはっきりさせるための表現方法なのだ。

最近では、文化庁は「敬語の指針」というのを纏めたと聞く。いたって人為的なルールをいきいきとした言語生活に押し付けたような思いがして、敬語の実態がいっそう見えにくくなった。

Learners of Japanese often have comments that keigo is difficult to understand. A main reason for this is the misleading of this name. To my mind, the entire system of this expression is not primarily used for respect, but rather to indicate the relationship between the speaker and the listener.

文化審議会・敬語の指針

2007年5月5日土曜日

デパ地下


学生レポートのテーマの一つには、「デパ地下」があった。高級デパートだとは言え、地下売り場ならバーゲンにちがいないとの予想とのギャップから来たものだろうか、日本のデパ地下の食品売り場は、新鮮で、若者の好奇心を惹きつけているもようだ。

考えてみれば、この言葉は外来語にまつわるもう一つの現象を象徴的に提示してくれている。すなわちカタカナ言葉と在来の日本語との混合、そしてそのように生まれた組み合わせをさらに短くしたものなのだ。このような言葉は、生活の中ではけっして少なくはなく、普段はさほど意識しなくなるぐらい、自然な表現のなかに溶け込んだものである。たとえば、「色ガラス」、「あんパン」。注意して探してみれば、いくらでもあげられるのだろう。

日本語の昔の歴史には、「和漢混淆文」という文体があった。いまやその伝統が生まれ変わり、文体とまでは期待できなさそうだが、和洋混淆の言葉が現われたと言えよう。

In Japan, many department stores have a food floor(s) at their basement and the combination of "department" and "basement" became a popular term. This represents a unique joint of western and Japanese words.

日本語への旅

2007年5月4日金曜日

電話


電話。おそらくこれほど時代の変化をリアルに映し出す言葉がないのではなかろうか。

日本の街の風景の一つには、色で分類された電話がある。街角に置かれた電話は、その色により、使い方も、掛けられる範囲も違う。二十年ほどまえは、百円硬貨を十円のそれに両替してもらって、それをピンク電話の上に堆く並べて真剣な表情で電話器を握るといった人の姿は、けっして映画のなかだけのものではなくて、実際にあっちこっちで見かけられた。そのうちグリーンの電話が誕生して、高級感の電話ボックスが駅前などに現われたときは、りっぱなものだと、そのころの人々がみんなそう思っていた。いつの間にかグレー電話が現われ、さらにあれこれの会社の、形も掛け方もさまざまなものが電話の一角を所狭しと並べられた。それとともに、携帯電話というものが生活のなかに大挙して入った。

いまや電話といえば携帯を指す、というところまでなった。その証拠に、これまでにはけっして聞きなれていなかった「固定電話」という言葉が生まれた。時の流れとともに、変わらない言葉をもってめまぐるしく変わる内容に当てるという、やや妙な言語現象をわたしたちは実際に体験している。

In Japan, public phones on the street have a number of types based on the calling ability and the way of payment, and they are indicated by different colors. Now, a cellphone becomes more and more popular, and it has almost taken over the use of the word "phone (denwa)"

電話コレクション

2007年5月3日木曜日

慣用表現の意味


この頃、いくつかのところで慣用表現の意味、さらに言えば使い方の正誤についての議論を聞いたり、読んだりした。しかもその場合、なぜか実例として引き出されるのは、「鳥肌がたつ」という表現だった。

たしかにこの表現は、恐怖や戦慄など、普通の価値判断で言えば不愉快な場面に直面するときの感じを伝えるものだと教わる。一方では、最近の会話や文章には、予想を超えた素晴らしいことに出会ったときの、感動の大きさを表わすものとして多くの人々がこれを意識的に用いる。そこで、言葉の意味に敏感で、伝統にこだわる人たちが、思わず「鳥肌がたつ」思いをしてしまう。

言葉の意味が刻々と変わる。それを意識しないでついつい順応してしまうものもあれば、どうしても引っかかって、言葉の現場では立ち止って考えてしまうものもある。その中で、過激な用例は、議論の対象となる。ただし、たいていの場合、そのような議論が言葉の用法にさほど影響がないことを付け加えたい。あえて言えば、言葉の変化のためには、ささやかな道しるべとなることで意味があるかもしれない。。

One may want to remember this expressing, literally means "having goosebumps", this is used to express some horrified feelings, and to the recent time, even refer to extreme excitement.

新日本語の現場

2007年5月2日水曜日

「デパガ」


放送を聴いたら、「デパガ」という言葉が耳に飛び込んできた。文脈的には中性的なもののようだけど、わたしの感覚には、なぜかどうしても品がよくないように聞こえてしまう。

いうまでもなく、「デパートガール」を短くしたものだ。外来語は、音を伝えることを基本とするため、どうしても長い。そして、他の言葉とのバランスが一つの大きな理由だろうかと思うが、実際の使用の中では、これを短くしてしまう。似たような例はいくらでも簡単にあげられる。「デジカメ」「パソコン」「コンビニ」「セクハラ」。英語の語感からすれば、よくもこれで意味が通じるものだと思われがちだが、日本語で用いられたそういった言葉の数が、全体の語彙では圧倒的に少ないがために、意味伝達に無理がなさそうだ。むしろ日本文化の特徴をここでも形にしようとするがごとく、一つの言葉を精一杯に短く詰める。まるでそこまで詰められなければ、つまらない、とでも感じているかのように。

「デパガ」には、一つの可笑しな思い出を持っている。大むかし、始めて日本で勉強したころのことだ。同じく留学生の一人がデパートに入れば、「日本はすごい、ここの人形はまるで本物のようだ」と言って、デパガを触ろうとしたのだった。幸いグループで行動していて、まわりの慌てた友人に止められて、騒ぎにならかった。考えてみれば、デパートに大勢の美しいガールたちを置くということ自体、世界広しと言えども、日本ぐらいしかないのだ。

While foreign words are used in Japanese, people tend to cut them to shorter forms, such as "depa-ga" for "department store girls".

和製外来語

2007年5月1日火曜日

日本一長い駅名


これは先月の新聞で読んだ話題だ。松江市にある一つの美術館の閉館に伴い、ローカル線の駅の名前が変わった、とのこと。その駅の名前は、日本一長いと言われる。そんなこともあるのかと、ちょっと興味を持った。

そこで調べてみると、ウィキペディアには駅の看板まで写真に載せてくれている。ぱっとみて、さすがに長い。そして親切にも時間付きで日本一を名乗っている。どうやら知る人ぞ知る、当地ではかなりの自慢の種だ。

そこで駅の名前をじっくり読んでみると、乱れた日本語表記の手本がここにありとの思いがした。日本語の駅名には、カタカナと漢字、英文字を混ぜ、名前と苗字を区切りするための中点を名前の間に使い、英語表記の省略点まで入れて、どうしても見づらい。さらに、英文字の「C」はどう発音すべきかと、そのヒントを求めてローマ字の行に目を移すと、それはさらにわけが分からない。名前と美術館の二つの言葉を英訳にしていながら、最後の単語だけはローマ字表記。このような書き方は、だれのためのものだろうか。日本語を熟知していて、かつ英語も分かる人でないと、おそらく間違いなく立ち往生してしまうことだろう。

わずか一つの駅名、日本語のかな/漢字とローマ字だけの二行の表記に過ぎない。せめて理屈の通った、普通の通行客に分かってもらえるような書き方ができないのだろうか。不思議を取り越して、あきれたぐらいだった。

It was told that this is the station with a longest name in Japan. However, the way of writing of the name combines a number of writing system and carries out a confused result.

美術館の閉館及びその原因について

2007年4月30日月曜日

外来語の言い換え


日本語では、外来語が乱用されているとの嘆き声が聞かれて久しい。それに対応しないと、と有識者も、政府機関も、教育関係者もみんなあの手この手の提案をする。その中でも、約一年前に「国立国語研究所外来語委員会」が纏めた「『外来語』言い換え提案」というのが一つの典型を示す。その提案は、「分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いの工夫」との副題を持ち、約二百語の外来語を取り出して、丁寧に置き換えの言葉を並べた。いかにも学者たちの仕事らしく、使用調査などの基礎作業も怠らなかった。当時は新聞やニュースにもかなり取り上げられたと覚えている。その実際の提案、いまから読んでいてもとても楽しい。

二つの例を見てみよう。リストの一番目にあげられたのは、「アーカイブ」。西洋のシステムを取り入れながら、在来の資料あるいはその集め方とは異なる、との自己主張を伴う施設などは、この言葉を多用していると思われる。だが、ここでは「保存記録」あるいは「記録保存館」、さらに場合によっては「史料」「公文書館」「文書館」などもよし、との提案だった。同じリストの最後の一語は、「ワンストップ」。こちらのほうはさすがに日本語の言葉としてはぎこちないが、なにせこれによって表現される概念そのものは在来の日本語にはそぐわない。提案された言葉は、「一箇所」、あるいは「一箇所集中」、「窓口一元化」、「総合窓口」だった。もとの外来語以上に日本語らしくない、というのはわたしの偏見だろうか。

提案をリストを読んでいて、外来語のある言語生活への苦慮や対応の苦労が、滲んでるぐらい分かる。しかしながら、はたしてこのような提言は、状況を変えることに役立つのだろうか。

Many English or European words are using in Japanese. There is a serious concern to limit the use of such words, however, it seems that no solution has been found so far.

「外来語」言い換え提案

2007年4月29日日曜日

海外日本語


表題はわたしの造語だ。いまだ日本語にない術後だろう。実際に日本以外の国で生活してみれば、日本語の違う表情がやはり気になる。

海外で生活している人々が使っている日本語は、総じて丁寧だ。自分の表現が間違っていないのか、きちんと意味を伝えているのだろうか、ひいては時代遅れだと言われはしないかと、日本語と並ぶ別の言葉が生活のなかで交差している分、いろいろな形やレベルで神経を使う。だから、たいていの場合「海外日本語」は分かりやすい。

一方では、語彙や言い回しは「表現の鮮度に欠けている」ということは否めない。海外での生活が長くなればなるほど、古い言葉が混じり、ときにはまるで保存されるべき、表現の化石のようなものにまで出会って、時の流れを感じさせられる。

反対へのはみ出しも見られる。日本語には英語などの語彙を簡単に取り入れて、カタカナ言葉の形で貪欲に吸収している。そのような傾向にあって、とりわけ英語圏で生活している人々の日本語は、カタカナ言葉への傾斜が避けられない。日常の生活の中で、日本にない事象や考えに出会う、特定の日本語を用いれば不要な連想が持ち込まれる、交流の相手にも同様の理解がある、などなどの理由により、ついつい気軽に英語をカタカナに書き出して、日本語の文章にそっと忍ばせてしまう。

バンクーバー旅行の間に、なにげなく街角に置かれた日本語無料雑誌を手に取ってみれば、さっそくそのような実例が目に飛び込んできた。巻頭リポートの最初の数行を読んだだけで、「フェアトレードの商品」「ディテールのデザイン」「オリジナルのレーベル商品」「ダブルオーナー」と、日本語としては分かるようで分からない表現がずらりと並ぶ。日本ではない、英語圏での生活の雰囲気は、このようなところからすでに溢れているものだ。

もともと言葉は生きものだ。「海外日本語」だって、多彩な日本語のために楽しい色合いを加えていると考えよう。

While Japanese is used outside of Japan, there are meny elements that one is hard to find them otherwise. One of the characters is the use of English words without seeking for proper Japanese expressions.

外来語であそぼう

2007年4月28日土曜日

BOOK-OFF


バンクーバー旅行の大きな楽しみの一つは、ダウンタウンの真ん中に出来たブックオフの店で時間を過ごすことだ。日本語の書籍なら外国に出ると値段が倍になるというこれまでの常識を覆してしまったことは、とにかくありがたい。北米の国ではさることながら、日本でも、古本流通にかつてない衝撃を与えたとの議論は、いまでも記憶に新しい。

もともとブックオフの名前は、どうやらローマ字表記を正式なものとされる。「book」も「off」も分かりやすい英語だから、英語をベースにした言葉に思われる。しかしながら、英語の感覚からすれば、いかにも妙な造語だ。あえて考えれば、「books off season」、「a book off the market」といったような用例が想像できるが、「boo-off」という組み合わせはどうしても落ち着かない。

そこで、この言葉の日本語としての意味はなんなのだろうか。はたして「値段が安くなった書籍」だろうか、それとも「流通の第一線から一度下げた書籍」だろうか。はたまたその両方を重ねて意味しようとしているのだろうか。私の感覚ではとても自明だとは思えない。

流行の言葉には、いわゆる和製英語が多い。和製である以上、英語でなくてもかまわない。この言葉も、その中の一例だと考えたい。

"BOOK-OFF" is a popular second-hand bookstore chain in Japan. However, this is a word made in Japan and I am not able to easily figure out the intended meaningis name.

イーブックオフ
BOOK-OFF

2007年4月27日金曜日

足袋・旅・度

形のうえでは、これは漢字表記の問題である。すなわち、特定の言葉を書き記す場合、どの漢字を用いるか、ということだ。たとえばテーマに掲げた用例、「足袋・旅・度」。口に出して読んで見ればすぐ分かるように、すべて「たび」と読む。実際、ここに挙げている三つの言葉は、読んでみないその関連には気づかないほど、互いにさほど関係がない。まったく違う言葉だと直感的に思う人だっているだろう。いうまでもなく、読み方が同じ以上、同じ言葉から来たものだと捉えるべきだろう。もともと同じ言葉の変容で、語彙発達の順番から考えれば、靴下を意味する言葉が、それが大いに活躍する旅行という言葉に意味が延長し、そして訪ねての回数を意味するようになったと推測できようか。もちろんこれはやや勝手な想像というレベルのもので、旅行という意味の言葉が靴下に展開されたというシナリオだってありえよう。

かなり似たような実例では、さらに「かみ」という言葉がある。おそらく「上」とはそのもともとの意味であり、広げて、体の一番上に来る「髪」を指し、人間よりは高い存在となる「神」を意味し、転じて、恭しくいただく「紙」となり、さらには一つの家族のなかで実際に力をもつ「カミさん」を言う。最後の例は、関西だけの使い方か。

ここでは、むしろ大事なのは、日本語としての一つの言葉が、だんだんその意味が拡大し、しかも漢字の表記にそれぞれの使い方が定着した、という道のりだろう。いわば漢字は、言葉の成長の年輪を記しているものだ。

週末にかけての、バンクーバーへの一泊の旅行をして、小奇麗な部屋の、VSTの宿より。

It is often an eye-opening experience for beginners while I introduce them the different meanings of "tabi" and "kami". They are good examples how Chinese characters record the change and development of Japanese vocabulary.

漢語表記の現状

2007年4月26日木曜日

ラーメン


夕べ、大学主催のあるパーティに出た。テーブルに座ってのゆったりした食事で、それも周りには親しい知り合いは一人もいなかった。知らない人との他愛のない会話を続け、話の話題にはおのずと日本に向けられた。共通の知識どころか、語彙も覚束ない会話のなかでの日本、いつも新鮮で刺激的なエピソードが飛び出す。昨日の場合、聞かれた質問に「日本のnoodle houseが有名だろう」があった。

一瞬なにを言われたのか、自分のなかにある語彙に置き換えることで精一杯だった。なんのこともない、ラーメンのことだった。それにしても、言葉が違うと、感じがこうも違うんだ。

考えてみれば、ラーメンという言葉の由緒が分からない。中国語から来た言葉だとされ、「拉麺」「柳麺」とも書かれるようだが、いずれもわたしの中国語の語彙にはない言葉なのだ。発音は「辣麺」に一番近いのだろうが、そのような中国語もない。「ラオ(手偏に労)麺」というものではないのかと勝手に思うが、実証があるわけではない。一説では、二十世紀の五十年代の終わりころになってようやく生まれた食事の形態であり、作られた言葉だとされるが、それにしても、ほんの半世紀ぐらいで、よくもここまで日本を代表するような食文化の風景の一角を担うようになったものだ。

ちなみに和英辞書に出たラーメンの英訳は、「ramen」「Chinese noodle in soup」とある。英語話者の平均的な感覚ではこのような訳が通じないということだけ記しておこう。

Noodle now is one typical Japanese meal. However, what would be the best English translation? Even more, where does this word come from? They are all mystery to me.

ラーメンデータベース

2007年4月25日水曜日

カラオケ・空オケ


「カラオケ」とは、実にユニークな日本語の言葉だ。その由来は、歌などの歌唱が付いていない、「空っぽのオーケストラ」といったところだろう。しかしながら「空オケ」とはだれも表記しない。いわば言葉の由来が分かっていても、あえてそこまで意識しなくても通じる、そこまで思いを走らせる必要を感じさせない語彙の部類に属する。

そして、いやま「カラオケ」は一つの娯楽の形態として、日本発の文化を端的に示す象徴的な実例になっている。音楽の伴奏に載せて思い切って歌い上げるということは、考えてみれば気持ちのいいことだ。その歌が共通していて、しかも歌っている人が互いに似たような音楽の才能の持ち主だったら、なおさら望ましい。このように、一つの娯楽の方法として、「カラオケ」はそのまま世界に通じる言葉になる。英語や中国語はもとより、周りの同僚に聞いたら、ドイツ語も、ロシア語も、フランス語もそっくりそのままこれを受け入れている。まさに数少ない和製世界語の一つなのだ。いうまでもなく、それぞれの言語のなかでは、「空っぽの」という意味はまったく顔を出す余裕がない。考えようによれば、これはまさに「ポッドキャスト」の反対側の実例だ。一つの日本語の言葉が、意訳ができないままそのコンセプトが一人歩きをし、意味の通じる訳語が生まれる可能性が求められないで世界の言葉になった。

商業ベースのカラオケ環境の提供とともに、パソコン使用の世界ではカラオケをいろいろな形で楽しむ可能性がたくさん生まれた。スタンダードの音楽にテキストファイルを用いてのカラオケ字幕作成は実に手軽にできるようになった。そう言うわたしも、今日の作業の一つとして、歌詞字幕を作成する方法の一つを覚えて、学生たちに日本の歌を習わせるファイルを作った。ちなみに、最初に選んだ歌はSMAPの「ありがとう」。学生たちに受け入れられるのだろうか。

"karaoke" is a good example that a Japanese word became a world-wide concept. Today, I learnt a way to make a computer lyric file. It is for a popular song by SMAP and I hope that my students may like it at the next class.

駄歌詞屋本舗

2007年4月24日火曜日

犯罪者の肩書き


日本からの毎日の映像ニュースは、NHKの番組のみだ。リアルタイムの夜の一時間のニュースは、毎朝の楽しみだ。

今日のニュースの一点、言葉の表現にはかなり引っかかった。イギリスから来た女性の殺害事件の判決で、容疑者無罪との内容だ。しかしながら、あくまでも証拠不足のための結果であり、ふつうにいう冤罪というものではなかった。というのは、容疑者となる人物は他の数件の殺人事件の罪で告訴され、かつすでに実刑判決を受けている。そのような犯罪者のことを、ニュースキャスターは、「○○社長」との連発だった。容疑者となる人物は逮捕された時点では不動産管理会社の社長だったようだが、でもどう考えてもそれがいまの肩書きだとは思えない。今現在の身分で呼ぶものだったら、被告、あるいは受刑者、というべきところだろうか。

日本語では、人の苗字を肩書き付きで呼ぶというのが礼儀だとされる。その肩書きが多種多様で、職業名、職名、官位などがあげられ、そこに話し手の敬意が込められる。肩書き、あるいは「様」を付け忘れた「呼び捨て」とは、初心者にありがちな間違いだと学生時代は繰り返し教われ、そして英語話者の学生たちに伝えるのも怠らなかった。それと考えあわせたら、これは逆のケースだと言えよう。敬意を払いすぎて、聞く人には非常に耳障りだ。

NHKの話し方は、いまの日本語の基準だという共通の理解を人々が持っている。その分、言葉の表現上のNHKウォッチングも、きっとたくさんの人々が試みているに違いない。有識者の意見を聞きたい。

As a basic rule, one has to address other people with his/her title in order to expressing the respect. On the other hand, we may also count into situations where such an address was somehow over-given.

NHKオンライン

2007年4月23日月曜日

辞書


思い出してみれば、日本語を習いはじめたころ、学校には図書館という施設をもっていなかった。そんな時代、辞書といえば、ただ一冊の日本語辞典。それも三十二人のクラスで共有し、辞書調べをするためには順番を待たなければならなかった。いまなら考えられない光景だ。

学生として日本に渡って、図書館や研究室の本棚を見れば、とにかく辞書というものの多さには圧倒された。古典研究の分野となると、メインの古典のタイトルには一冊の辞書というのが常識であり、源氏物語については十冊を下らないものがずらっと並び、それもどんどん新しいものの刊行が続いた。日本語の辞書の種類の多さは言うを持たず、一番規模の大きいものは二十冊だった。辞書というもんは、こうあるべきだと、日本文化への、いささかオーバーに言えば日本文化を通じて文明への開眼だった。

そのような辞書も、いつの間にか実用の第一線からじりじりと後退し、電子メディアに支配の座を譲りはじめた。もともと辞書というものは、電子メディアによく似合う。縦横に調べたり、目指すところに簡単にたどり着いたりするための機能は、紙に印刷されたいかなる索引にも優れている。電子辞書を丁寧に集めて、CD-ROMの棚に入れ始めたと思えば、いまやオンラインのものが主導を握るようになった。使う用途に沿った辞書さえ分かれば、じつに使い心地がよい。

電子辞書のおかげで、知識への求め方も、そして基礎知識の持ち方も否応なし変わった。身近のことで言えば、漢字の部首や画数を正しく把握することはほとんど期待されなくなった。かつては正確さが要求されたが、いまや辞書のほうがぐんとこっちに寄ってきて、「あいまい検索」とかいって、何でも親切に対応してくれる。昔に比べれば、はたして恵まれたというのか、それとも過剰に甘やかされたと捉えるべきだろうか。

このような傾向への不安も聞こえる。だが、いかなる抵抗や心配があっても、辞書が代表するような基礎知識の提供は、やがて空気や水のようにわれわれの周りを溢れる時は確実にやってくるだろう。それに伴い、われわれの知識も、教育の内容も変質することだろう。そのような時代の流れに対して、不安を感じて嘆くのか、それとも苦労して操縦するのかとで、立場が大きく異なるものだといわざるをえない。

The first culture shock I received when I went to Japan for the first time was that there were so many different types of dictionaries. These days, dictionaries became to get into our life in an electronic format. We all have to be ready to meet this change.

weblio

2007年4月22日日曜日

母音の発音


半年に一度の日本語教師会の研修会が開かれた。二部構成の後半には、先日、日本語弁論大会ですてきな司会で参加者を魅了した桑野さんを講師に迎えて、日本語の発音について語ってもらった。

日本語の発音へのアプローチは、いろいろと考えられる。五つの母音に絞って見ても、その音質、発音の方法、子音や後続する音節との組み合わせなどを基準に分類しようと思えば、おそらく無数のルールが纏められるだろう。ところで今日の研修会で紹介されたのは、意外にも感性的なものだった。基本的な口の開き方、発音の要領に加え、つぎのコメントが教わった。曰く、「あ」の音はあかるく、「い」の音はかわいく、「お」の音は知的に発音すべき、とのこと。すなわち日本語の発音をぜんぶ正しくこなせれば、それだけで明るくて、知的で、かわいい話し方になる。自分の発音ではそういうことがとても可能だとは思えない。しかしながら、日本語の話し方を観察する、楽しむための一つの手がかりを手に入れたような感じだ。

思えば、同じ日本語と言っても、分かる日本語、正しい日本語、美しい日本語と、その一つひとつはまったく次元の異なるものだ。発音とは、まさしくよりよい日本語をめざすための大事な階段だと言えよう。

Here is an unique approach to a beautiful Japanese pronunciation. It is, as for the five Japanese vowels, a shall be cheerful, i shall be cute and o shall be intellectual.

NHK日本語発音アクセント辞典・利用の手引き

2007年4月21日土曜日

ふりがな


「振り仮名」という呼び名は、どのように生まれたのだろうか。「振る」とは、「振りまく」、「振り回す」といった行為に関連する。したがって一つの文章に満遍なく仮名を散らばす、というイメージが伝わる。しかも振り仮名を「書く」などとは言わない。あくまでも「振る」のである。

思えば、これは日本語に漢字を用いるための付属的な結果だろう。漢字はどれも二つかそれ以上の読み方を持っていて、しかもその使い方は時代や状況によって生まれた語彙に付随して変容を続けてきた。だからこそ、振り仮名はただ文章力を持たない子供などだけを対象にする補助的なものではなく、書写される日本語の欠かせない一部分だ。このようなあり方は、この先も大きく変わることはなさそうだ。

日本語を外国語として学ぶ初心者の学生たちに向かって「振り仮名」を説明すれば、いつも余分なため息が聞こえてくる。「ひらがな」「カタカナ」のことを精一杯の努力で覚えたかれらには、この一言だけで無用のプレッシャーを与えかねない。そういえば、日本語にはさらに「送り仮名」「捨て仮名」があるんだ。日本語は奥が深い。

ちなみにパソコンを使えば、いまは英語バージョンのMSワードでも「Asian layout」と称して振り仮名に対応している。その機能の呼び名は、「phonetic guide」と言って、「音声的な補助」とでも訳すべきだろうか。(写真は長岡天満宮の境内にある看板の一部)

Each kanji in Japanese has two or more ways to read it. For this reason, in order to make the writing clear, Japanese article often requests furigana. This is a part of regular Japanese writing format, and in a computer word processing program, English MS Word, this is referred as "phonetic guide".

振り仮名表現の諸相

2007年4月20日金曜日

番地


日本の番地は、ややこしい。

「番地」とは、順番・番号をもつ土地、といったぐらいの意味だろう。問題はその順番はなにを基準にするか、ということだ。日本の場合、その番号が建物が面している大なり小なりの道路と関係がない。一つひとつの地域が任意に纏まり、その地域がさらに細かく分割されて番号が振り当てられる。したがって、その土地の番号が分かっていても、地図を広げてみなければその位置が分からない。

北米の町で生活してみれば、番地のあり方が相対的に見えてくる。ここでは番地のことを「ストリート・ナンバー」と呼ぶ。ストリートの名前まで数字にしているところには、たしかに素っ気無くて、町全体の新しさを感じさせる。だが、とにかく便利だ。建物とストリートの番号はそのままX軸とY軸の座標を成している。二つの番地を比較すれば、それの相対位置関係が一目で分かる。

たとえば東京の町を歩いてみると、番地を表記するきれいな看板が整頓されている。ただし、その土地のことがよく分からない通行者の便を考えてくれるものだったら、ただの番号ではなくて、それが位置する平面的な略図がぜひとも必要かもしれない。だれかそのような案を言い出さないのだろうか。

In Japan, even you knew a house number, it would still be difficult to find out the location. This all due to the numbering system. In short, a number is assigned based on a given area, but does not relate to the street or the road.

So-net 地図
BIGLOBE地図

2007年4月19日木曜日

今日は雪


四月も下旬に入る。日本では桜前線が福島県の鶴ケ城にまで北上し、テレビのニュース画面をにぎわせるのは、すでに気の早い鯉のぼりだ。しかしながら、ここカルガリーでは、朝目を開ければあたり一面の雪。思わずカメラを構えて、ベランダの一角を捉えた。

春が来ない。あるいは、雪のまま夏に突入してしまうかもしれない。

雪。これに因んだ言葉ならなにをあげるべきだろうか。すぐ頭をよぎるのは、「雪景色」、「雪化粧」、「雪深々」。なぜかどれも一世風靡した演歌のせりふだ。その一つひとつを思い返してみれば、どれも目の前の状況とマッチしているようで、どこかまったく関係のない、遠くかけ離れたものだ。

歌舞伎の世界では、「雪が鳴る」という。その雪の鳴る音は、太鼓の音に託される。となれば、目の前の静かで暖かい雪を見つめながら耳を欹てる。春の雨水にすぐ溶けてせせらぎと流れる季節の足音が聞こえそうだ。

It snows again, at the end of April. Never had this in many years, and it seems that in this year, the winter would never leave us along. However, when I try to listen to it, just following a Japanese expression, I can hear the sound of Spring...

雪たんけん館
SnowCrystals.com

2007年4月18日水曜日

言葉遊び

日本の街角で見かけた看板広告の一つ。タイトルの「こんばん和」とは、「今晩は、和(食)」とすぐに気づいた。これで看板の読み方のルールを心得たとばかりに、さっそくメニューのほうに目を移す。読み解くまでにはさすがに一苦労。試行錯誤に声に出して読み続けて、ようやく答えが見えてきた。どうやらつぎのような献立だ。


御夢烈・おんむれつ・オムレツ
素把月亭・すばげつてい・スバゲッティ
半場隅・はんばぐ・ハンバーグ
活気婦雷・かっきふらい・蛎フライ
相撲食佐門・すもうくうさもん・スモークサーモン
秘坐・ひざ・ピザ(略。絵をクリックして続きを挑戦してください。)

さすがに楽しい。知らず知らずにささやかなパズル解きの旅に誘われた思いになった。

解説するまでもなく、この言葉遊びは漢字とカタカナ言葉との距離をミソにしている。そして漢字の漢字たる所以の意味を無視して、それをただの表音記号として用いたのは、日本語における漢字使用の始まりだった。それが「万葉仮名」という。千年以上経ったいまにおいても、その万葉仮名という使い方は、人名や地名に残されて、完全に姿が消えたわけではない。いわば日本語の分かる人なら、その理屈を身に付けている。だからこそこのような言葉遊びに共感し、面白みを感じるのである。

もともとこれが飲み屋の広告のようだが、はたして和食なのか、洋食なのか、それとも和洋折衷なので、日本で生活していないわたしには、にわかに分からない。ちなみにこれが数年前の写真だ。同じ店がいまでもやっているとすれば、きっと新しいバージョンを出していることだろう。同じように楽しいに違いない。

It was an enjoyable challenge for me to read this advertisement from Japan. It applies kanji to express some popular western meal menu. As a principle, however, this way of using kanji represents a very old tradition, while Japanese people used Chinese characters only indicating sounds (syllables) but not meaning.

万葉仮名や年号の変換
ことば遊びの重箱

2007年4月17日火曜日

トイレ


学生たちには、自分でテーマを決めて東京を観察し、レポートするように要求した。戻ってきたテーマには、「トイレ」が入っている。日本のトイレ、どうやらそれだけで文化的な特徴を持っている。

思えばこれを表わす言葉がまず一つの風景を成している。普通のオフィスビルやデパートなど公共の場に入ってみれば、その標識には、おそらくつぎのものが平均に用いられている。「お手洗い」「便所」「トイレ」「W.C.」。それに絵標識、高級ホテルなどにみる「紳士」「淑女」、お寺などの由緒ある看板まで入れると、さらに多彩多様だ。異なる言葉が用途や用法の差をほとんど持たないで共存し、和・中・洋の完璧な折衷あるいは平等の観を呈する。

一つの事象にめぐって、それを捉える言葉が時の移り変わりに伴って変化し、あるいは使う主体や置かれる状況によって違う表現が選ばれるという言語の現象は、よく知られている。しかしながら、違う言葉が同じレベルで一つの事象を表わし、仲良く共存することは、おそらく日本語において一番簡単に確認できる現象だろう。

おかげで日本語学習の初心者たちには余計な苦労を強いる結果になることを付け加えたい。

There are a number of ways to indicate "washroom" in Japan. You can find them equally at signs in public places. These different expressions represent different origins in Japanese, Chinese and Western languages. It is, nonetheless, a headache for beginners of Japanese.

東京トイレマップ

2007年4月16日月曜日

ポッドキャスト


「ポッドキャスト」とは、いまや普通の日本語の言葉になった。わたしもそれを毎日のように楽しんでいる人の一人だ。日本からの気に入りのラジオ番組を小さなiPodに入れて持ち歩いていて、自分ひとりの時間がおかげで非常に有意義で楽しいものになった。

ポットキャストの仕組みや使い方はともかくとして、この言葉自体の意味を日本語のみで接している人ならどこまで分かっているのだろうか。はなはだ心もとない。ごく簡単に解説すれば、およそつぎのようなものだろう。言葉の由来は、あのアイ・ポッド。「アイ」とは、アイ・マックという新しいタイプのパソコンを世に送り出したアップル社の命名したもので、「individual(個人用)」の頭文字だとされる。そのシリーズものの一点としてアイ・ポッドが作られ、「ポッド」とは大豆のさや、転じて武器などの格納庫を意味し、とりあえず「個人用(音楽の)格納庫」といった意味だ。ちなみにこの「アイ」シリーズのつぎの作品はほぼ二ヶ月後に販売予定の「アイ・フォン」である。宣伝だけみれば日本のたいていの携帯電話が当然のように搭載している機能しか持たず、どこに人を惹きつける魅力があるのかいまだ分からないシロモノだ。「アイ・ポッド」に戻るが、その魅力とは、確立されたMP3のフォーマットをベースにしたことであり、音楽など音声の資料をいかに便利に提供することに工夫したところにある。おかげで在来の「放送」との合体が実現できた。英語の言葉遊びの定番として、「iPod」と「broadcast」の二つの言葉が合体して、「podcast」という新語が出来上がった。日本語に直せば、さしずめ「アイ・ポッドによる放送」というところだろう。造語の妙味は、まさに英語話者の人ならだれでも簡単に理解できるところにある。もともと、場合によってはこれが誤解を招くぐらいのオーバーなもので、あのアイ・ポッドがリアルタイムで放送をキャッチできるものだと不思議に思う人が後を絶たない。

そこでこの英語の言葉はそのまま日本語になった。自然なことに、「ボロードキャスト」という言葉を用いない日本語としては、この用語の意味は一向に伝わらない。一方では、言葉が伝わらなくても、それが指す中味が、言葉に頼らないでどんどん成長し、成熟することは大いに可能だ。「ポッドキャスト」はまさにその格好の実例だ。日本語の言葉としては、「放送」という意味合いを読み取れなくても、この技術の応用にはいっこうに差し支えはなかった。ポッドキャストとは、とにかくその素晴らしい中味と伴って人々の生活に定着していった。いわば、適当な訳語に辿りつくまえに、まるごと一つの外来のコンセプトとして、ポットキャストは日本でその市民権を得たのである。いまになれば、すでに生命を持ち始めた「ポッドキャスト」は、言葉としてより意味の分かりやすいものにたどり着く可能性を持たない。

一世風靡の電子製品には、ソニーの「ウォークマン」がつねに語り草になっている。英語の造語まで流行らせたものだから、文化的な現象だったと謳われていた。その目で見れば、ポッドキャストは、まさに国境を越えた今時の文化の花形だ。しかも一つの製品がまわりの産業まで巻き込んだという意味では、まさにもう一つの新たなスタンダードを立ち上げたといわざるをえない。

"Podcast" became to be a popular Japanese word. However, as there is a Japanese way to express "broadcast", most Japanese speakers do not know where does "-cast" come from, thus eventually they accepted this concept without knowing much about the meaning of the word.

YAHOO!ポッドキャスト

2007年4月15日日曜日

臙脂色


学生たちが主役となるWEBページを二つほど立ち上げた。それのベースとなる色は、大学のロゴや大学サイトの公式色とのバランスから考えて、臙脂色(えんじいろ)を用いた。

色は、とにかく奥が深い。WEBページのデザインとなると、最終的にそれがすべて16進数のコードとなる。色の種類もしたがってコードの組み合わせの数だけあって、とても一々見分けられるようなものではない。しかも大事なのは、ベース色の選び方ではなくて、それの使い方だ。一つの色は、それを盛り立てる周りの色の存在によって生きてくる。基本的な知識を持ち合わせないまま、気が遠くなるような可能性に圧倒されて、ついついそれを敬遠してしまうのは、わたし一人だけだろうか。

一方では、そのような奥深い色と色の組み合わせは、的確で由緒ある言葉をもって捉えるということは、まさに文化と伝統の成せるワザである。日本語では、色を表現する言葉がとりわけ大事にされてきた。遠く千年以上前の平安の用語で言えば、それが襲(かさね)と呼ばれた。季節の移り変わりや自然の風物に溶け込む豊富な色と無尽の組み合わせを豊かな語彙で捉え、伝えていた。一つの言葉と特定の色との対応にはずれも予想されるが、それ以上に、人々はその要素を最小限にし、対応の体系を整えるように弛まない努力を続けてきた。

因みに、「臙脂色」という言葉はそんなに古くなく、おそらく百年単位の歴史しかない。この言葉に力強い感情をつぎ込んだのは、一人の明治時代の歌人だ。その歌では、この色は熱い血潮を表現するものとして用いられ、情熱の色と位置づけられた。この感性は、今日になっても人々に共有されていると言えよう。

臙脂色は/誰にかたらむ/血のゆらぎ
春のおもひの/さかりの命(与謝野晶子『みだれ髪』)

Designing two webpages for my students, I decided to use dark red as the base color. Can you find a specific word to indicate this color? Can you associate this color with a feeling which most people can agree with? In the Japanese understanding, however, we have a clear answer.

原色大辞典
襲色目と重色目

とろける・とける


ラジオを聴いて、楽しい会話の一こまがあった。「(人間が)とろけた」との発言があって、それを受けたアナウンサーがすかさず「とけた」と直した。

「とける」と「とろける」。まるきり違う言葉のようでもあり、かなり似通ったもののようでもある。はたしてその本質の差はどこにあるのでしょうか。辞書を調べてみれば、前者は固体が液体になること、後者は固まったものがやわらかいものになることをそれぞれ指す。辞書的な用例ですと、前者は氷、後者はバターを持ってくる。いかにも分かりやすい。でも、両者の意味範囲の外縁にあるものが互いに交差し、それがもたらす微妙なニュアンスこそ表現のミソである。言う人の気持ちがそこに集中され、集約されてしまうとさえ言えよう。

ここ数日、「氷が溶ける」というのが、一つの政治用語としてニュースを賑わせている。中国首相の訪日を語る中国メディアの造語を日本メディアが苦労して訳したものだ。「破氷」「融氷」と中国語らしい言葉の綾をありのまま伝えることはとうてい難しい。一方では、長い冬に包まれるカナダのロッキー山脈はようやく春を迎えた。ひと冬凍った氷が溶けはじめると、細長い棒となって川の表面を絨毯のように敷き詰める。ここでは「氷が溶ける」という表現を用いても、異なるイメージを指すことになる。(C.Y.撮影)

Both these two words mean "to melt" but they are often used in rather different situations. Here at a popular radio talk show, the hosts had some difficulty to decide which one to use for describing a situation involving human beings. On the other hand, at the Rocky, we see an unique scene while the ice became to melt in the Spring.

コラムの花道(4/13)

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