2007年4月23日月曜日

辞書


思い出してみれば、日本語を習いはじめたころ、学校には図書館という施設をもっていなかった。そんな時代、辞書といえば、ただ一冊の日本語辞典。それも三十二人のクラスで共有し、辞書調べをするためには順番を待たなければならなかった。いまなら考えられない光景だ。

学生として日本に渡って、図書館や研究室の本棚を見れば、とにかく辞書というものの多さには圧倒された。古典研究の分野となると、メインの古典のタイトルには一冊の辞書というのが常識であり、源氏物語については十冊を下らないものがずらっと並び、それもどんどん新しいものの刊行が続いた。日本語の辞書の種類の多さは言うを持たず、一番規模の大きいものは二十冊だった。辞書というもんは、こうあるべきだと、日本文化への、いささかオーバーに言えば日本文化を通じて文明への開眼だった。

そのような辞書も、いつの間にか実用の第一線からじりじりと後退し、電子メディアに支配の座を譲りはじめた。もともと辞書というものは、電子メディアによく似合う。縦横に調べたり、目指すところに簡単にたどり着いたりするための機能は、紙に印刷されたいかなる索引にも優れている。電子辞書を丁寧に集めて、CD-ROMの棚に入れ始めたと思えば、いまやオンラインのものが主導を握るようになった。使う用途に沿った辞書さえ分かれば、じつに使い心地がよい。

電子辞書のおかげで、知識への求め方も、そして基礎知識の持ち方も否応なし変わった。身近のことで言えば、漢字の部首や画数を正しく把握することはほとんど期待されなくなった。かつては正確さが要求されたが、いまや辞書のほうがぐんとこっちに寄ってきて、「あいまい検索」とかいって、何でも親切に対応してくれる。昔に比べれば、はたして恵まれたというのか、それとも過剰に甘やかされたと捉えるべきだろうか。

このような傾向への不安も聞こえる。だが、いかなる抵抗や心配があっても、辞書が代表するような基礎知識の提供は、やがて空気や水のようにわれわれの周りを溢れる時は確実にやってくるだろう。それに伴い、われわれの知識も、教育の内容も変質することだろう。そのような時代の流れに対して、不安を感じて嘆くのか、それとも苦労して操縦するのかとで、立場が大きく異なるものだといわざるをえない。

The first culture shock I received when I went to Japan for the first time was that there were so many different types of dictionaries. These days, dictionaries became to get into our life in an electronic format. We all have to be ready to meet this change.

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