2007年5月12日土曜日

ぐっすり美人


電車に乗ったら、広告はやはり多い。満員の車両のなかに身動きもできないままにいると、つい広告のせりふを繰り返し眺めてしまう。言葉表現のサンプルはここにあり、と感じて、いつもながら感心する。

そばにいる学生は、指差して説明を求めてくる。キャッチフレーズは簡単で、「めざせ!ぐっすり美人」とある。初心者の学生なので、どうやら分かったのは、美人だけ。あとの平仮名言葉は、分かりそうで分からないという。命令形だの、擬態語だとと、言語教師なら普通のクラスなら一通りタッチしておかなければならないことを思い切って簡単な形で伝えてみた。そこで、はじめて気づいたのだが、そういった知識を持っていても、このフレーズの意図するところが伝わらないんだ。いうまでもなく「虞美人」という言葉が下敷きになり、その響きがあるからこそ、「ぐっすり美人」が生きてくる。そのようなことは、言語の環境で生活すると、自然に身に着いてくるものだが、これをいざクラスの知識として伝えようと思えば、どうしても無理が出てしまう。

言葉を外国語として教えると、表現と表現のうしろにあるものをどこまでカバーしなければならないことだろうか。いつもながら考えさせられるテーマである。

Here is a very simple catch phrase from a advertisement poster. However, without some culture knowledge, it is rather hard to understand why it is a fine line.

日本語を楽しもう!

2007年5月11日金曜日

「らくがき厳禁」


街角を歩くと、日本はやはり看板が多い。店の名前や広告などもさることながら、静かな裏道などに貼られる公共の看板はまた目立つ。看板そのものは、日本の街の景観を成していて、ときには、その景観を台無しにしたと思えてならない。

看板の書き方には、ルールあるいは嗜好があるのだろうか。あるいはそんなものがないと考えたほうが自然だろう。しかしながら、好まれそうな傾向もみられる。楽しい一例は、かなと漢字の組み合わせ。単純に漢字の使用法、頻繁度などで考えて説明するものではなく、むしろ一つのパターンだ。たとえば「らくがき厳禁」。さらに「ちかん注意」、「ひったり注意」などなど。考えてみれば、漢字言葉をかなに書きなおすことで、人に音を出して読んでもらうという意図はまずあるだろう。それよりも、このようなマイナスな行為の表現については、それを一目で分かる漢字で書かないで、目に訴えることを狙わないかな書きにすることによって、町の景観への最小限の配慮もたしかに働いていることだろう。

さいわい公共の看板には、内容からいえば禁止が中心で、奨励が少ない。奨励ものまで看板になってしまったら、町はこれ以上に文字に埋まれてしまうのではないかと、勝手に想像しながら。

Here is a patten of Japanese public signs, using a combination of kana and kanji. As many of them indicate prohibition of some negative manners, this arrangement plays a rule of softening the impact of the writing.

まちの落書き消し隊

2007年5月10日木曜日

「あ、しあわせ!」


若い学生たちを連れて、一ヶ月の語学研修。いうまでもなく、言葉というものが学習者たちの努力や能力にどれだけ溶け込むか、わくわくして眺めているものである。

言葉を吸収するプロセスはとにかく興味深い。クラスではどんなに苦労して説明してあげても、実際の生活の中での会話のいきいきしたものと比べれば、色褪せをしてしまう。たとえば、よく話題になるのは、望ましくないスラムの言葉を外国語学習者がいとも簡単に覚えてしまうことだ。かれらの言葉のレベルに合わないまま、あるいは無邪気な会話の中にまじっただけに、そのような品のない語彙が耳障りなものだ。しかしながら、一方では、非常に上品で、あるいはすごく気持ちが伝わるような会話も飛び出してしまう。バスの何に乗って、道路標示に出た「渋谷」「新宿」などの文字を見たときの歓声は素直で素晴らしい。初めてのラーメン屋に入ったら、一人の学生はスープを一口飲んで、「あ、しあわせ!」と言った。どこでそういう会話を覚えたのやら、傍で聞いていて、ただただ感心しきり、だった。

学生たちの進歩は、クラスでの講義から得た知識を元にしたもので、そこからの飛躍だと思いたい。語学研修を通じて、学生全員というわけにはいかないが、何人かはその日本語能力が確実に化ける。教える立場にいるものとして、かれらと喜びを分かち合うものだ。

While leading a group of students to Japan, it is always a great joy to see how much they can handle the language, and get the most from this very short period of time.

フォト日記

2007年5月9日水曜日

ニュースレターの投稿

学生たちを連れて、一路東京にやってきた。旅と、時差と、それから学生たちが落ちづくまでの細かなことへの対応、ふだんの生活のリズムに戻るにはすこしは時間がかかりそうだ。

今日のところ、これまでの原稿をまとめたのをリンクしよう。ささやかなニュースレターだが、それでもかかわって4年近くなった。いまだ一読の価値があるのだろうか。

CAJLEニュースレター・巻頭言

2007年5月7日月曜日

マニュアル敬語


昨日の話題を続ける。

あらためて「敬語の指針」を読むと、その中には特別に「マニュアル敬語」という項目を立てた。ここでは、実際に会社の新人などを対象に作成されたマニュアルを取り上げ、過剰になることは望ましくないが、一つの表現のアドバイスとしては機能しているのではないかと、あいまいにして中庸的なアプローチを取った。

しかしながら、巷では「マニュアル敬語」といえば、そう温厚に捉えていない向きがある。その呼び名は、さらに「ファミレス敬語」「コンビニ敬語」「バイト敬語」などとさまざまなバージョンを持つ。すぐに思い浮かぶのは、例の「千円から預かります」といった表現だ。そもそも領収しなければならない場面だから、「預かる」とは内実に合わず、そして手に入れたのはそっくり千円そのものだから、「から」とはいったい何をニュアンスにしようとするのか、理屈っぽく考えれば考えるほどわけが分からなくなる。

このような「マニュアル敬語」とは、あくまでも特定の仕事に従事する人々の、決まった状況のもとでの用語である。したがって、以上のような理屈云々で議論し、ひいては非難したところで、コンビニでの会話を変えることはないことだけは、確かだろう。ここでは、むしろそれを敬語として考えることが、ことの本質をぼかしてしまうのではなかろうか。そのような表現は、むしろ一種の職業用語であり、敬語のあり方についての議論に参加させないことが、有意義かもしれない。

「マニュアル敬語」ではなくて、『敬語マニュアル』と題する本が出版されている。そこでは以上のような表現を取り上げていないことを祈る。

In Japan, at a place such a convinient store, one may often hear some expressions that is rather over-polite. There is a new name for such expressions, "manual honorific expressions".

マニュアル敬語について考える
マニュアル敬語論

2007年5月6日日曜日

敬語


敬語は、一つの日本語の言語現象としてつねに特別視されている。これは日本語を外国語として習う学習者だけに留まらず、これを母国語として話している人々までそのように捉えがちだから、妙なことだ。

そもそも「敬語」というネーミングは、誤解を招く。日本語という言語の体系において、敬語とは、けっして「尊敬を表わすための表現」として捉え切れるものではない。ひいて言えば、尊敬を表わすのは、実際の敬語の使い方のほんの一部にすぎない。教科書通りの敬語で話しかけられていながらも、そこからは距離感だけあって、尊敬されているとは毛頭感じられないといったような状況を、われわれは生活のなかでどれだけ経験したのだろうか。

これには、学生時代の一つの思い出がある。外国人留学生として日本で生活してみれば、こちらから丁寧に言葉を選ぶことがあっても、さすが敬語で接されるような機会がなく、自分もそのような待遇を受けることを望んでいなかった。そこで、言葉の表現に自由を覚えはじめたころ、一つの特別な場において、敬語で話しかけられたのだった。それは、なんと商品の返却をめぐっての、店員とのやや強引な押し問答の中に飛び出されたのだった。「お客さんはそうおっしゃいますけど…」。それを聞いたあの一瞬、表現の本質を垣間見た思いがして、自分のなかではなぜかジンと来ました。

突き詰めて言えば、日本語の敬語とは、尊敬も含めたさまざまな人間関係、とりわけ人間の距離をはっきりさせるための表現方法なのだ。

最近では、文化庁は「敬語の指針」というのを纏めたと聞く。いたって人為的なルールをいきいきとした言語生活に押し付けたような思いがして、敬語の実態がいっそう見えにくくなった。

Learners of Japanese often have comments that keigo is difficult to understand. A main reason for this is the misleading of this name. To my mind, the entire system of this expression is not primarily used for respect, but rather to indicate the relationship between the speaker and the listener.

文化審議会・敬語の指針

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