2007年4月28日土曜日

BOOK-OFF


バンクーバー旅行の大きな楽しみの一つは、ダウンタウンの真ん中に出来たブックオフの店で時間を過ごすことだ。日本語の書籍なら外国に出ると値段が倍になるというこれまでの常識を覆してしまったことは、とにかくありがたい。北米の国ではさることながら、日本でも、古本流通にかつてない衝撃を与えたとの議論は、いまでも記憶に新しい。

もともとブックオフの名前は、どうやらローマ字表記を正式なものとされる。「book」も「off」も分かりやすい英語だから、英語をベースにした言葉に思われる。しかしながら、英語の感覚からすれば、いかにも妙な造語だ。あえて考えれば、「books off season」、「a book off the market」といったような用例が想像できるが、「boo-off」という組み合わせはどうしても落ち着かない。

そこで、この言葉の日本語としての意味はなんなのだろうか。はたして「値段が安くなった書籍」だろうか、それとも「流通の第一線から一度下げた書籍」だろうか。はたまたその両方を重ねて意味しようとしているのだろうか。私の感覚ではとても自明だとは思えない。

流行の言葉には、いわゆる和製英語が多い。和製である以上、英語でなくてもかまわない。この言葉も、その中の一例だと考えたい。

"BOOK-OFF" is a popular second-hand bookstore chain in Japan. However, this is a word made in Japan and I am not able to easily figure out the intended meaningis name.

イーブックオフ
BOOK-OFF

2007年4月27日金曜日

足袋・旅・度

形のうえでは、これは漢字表記の問題である。すなわち、特定の言葉を書き記す場合、どの漢字を用いるか、ということだ。たとえばテーマに掲げた用例、「足袋・旅・度」。口に出して読んで見ればすぐ分かるように、すべて「たび」と読む。実際、ここに挙げている三つの言葉は、読んでみないその関連には気づかないほど、互いにさほど関係がない。まったく違う言葉だと直感的に思う人だっているだろう。いうまでもなく、読み方が同じ以上、同じ言葉から来たものだと捉えるべきだろう。もともと同じ言葉の変容で、語彙発達の順番から考えれば、靴下を意味する言葉が、それが大いに活躍する旅行という言葉に意味が延長し、そして訪ねての回数を意味するようになったと推測できようか。もちろんこれはやや勝手な想像というレベルのもので、旅行という意味の言葉が靴下に展開されたというシナリオだってありえよう。

かなり似たような実例では、さらに「かみ」という言葉がある。おそらく「上」とはそのもともとの意味であり、広げて、体の一番上に来る「髪」を指し、人間よりは高い存在となる「神」を意味し、転じて、恭しくいただく「紙」となり、さらには一つの家族のなかで実際に力をもつ「カミさん」を言う。最後の例は、関西だけの使い方か。

ここでは、むしろ大事なのは、日本語としての一つの言葉が、だんだんその意味が拡大し、しかも漢字の表記にそれぞれの使い方が定着した、という道のりだろう。いわば漢字は、言葉の成長の年輪を記しているものだ。

週末にかけての、バンクーバーへの一泊の旅行をして、小奇麗な部屋の、VSTの宿より。

It is often an eye-opening experience for beginners while I introduce them the different meanings of "tabi" and "kami". They are good examples how Chinese characters record the change and development of Japanese vocabulary.

漢語表記の現状

2007年4月26日木曜日

ラーメン


夕べ、大学主催のあるパーティに出た。テーブルに座ってのゆったりした食事で、それも周りには親しい知り合いは一人もいなかった。知らない人との他愛のない会話を続け、話の話題にはおのずと日本に向けられた。共通の知識どころか、語彙も覚束ない会話のなかでの日本、いつも新鮮で刺激的なエピソードが飛び出す。昨日の場合、聞かれた質問に「日本のnoodle houseが有名だろう」があった。

一瞬なにを言われたのか、自分のなかにある語彙に置き換えることで精一杯だった。なんのこともない、ラーメンのことだった。それにしても、言葉が違うと、感じがこうも違うんだ。

考えてみれば、ラーメンという言葉の由緒が分からない。中国語から来た言葉だとされ、「拉麺」「柳麺」とも書かれるようだが、いずれもわたしの中国語の語彙にはない言葉なのだ。発音は「辣麺」に一番近いのだろうが、そのような中国語もない。「ラオ(手偏に労)麺」というものではないのかと勝手に思うが、実証があるわけではない。一説では、二十世紀の五十年代の終わりころになってようやく生まれた食事の形態であり、作られた言葉だとされるが、それにしても、ほんの半世紀ぐらいで、よくもここまで日本を代表するような食文化の風景の一角を担うようになったものだ。

ちなみに和英辞書に出たラーメンの英訳は、「ramen」「Chinese noodle in soup」とある。英語話者の平均的な感覚ではこのような訳が通じないということだけ記しておこう。

Noodle now is one typical Japanese meal. However, what would be the best English translation? Even more, where does this word come from? They are all mystery to me.

ラーメンデータベース

2007年4月25日水曜日

カラオケ・空オケ


「カラオケ」とは、実にユニークな日本語の言葉だ。その由来は、歌などの歌唱が付いていない、「空っぽのオーケストラ」といったところだろう。しかしながら「空オケ」とはだれも表記しない。いわば言葉の由来が分かっていても、あえてそこまで意識しなくても通じる、そこまで思いを走らせる必要を感じさせない語彙の部類に属する。

そして、いやま「カラオケ」は一つの娯楽の形態として、日本発の文化を端的に示す象徴的な実例になっている。音楽の伴奏に載せて思い切って歌い上げるということは、考えてみれば気持ちのいいことだ。その歌が共通していて、しかも歌っている人が互いに似たような音楽の才能の持ち主だったら、なおさら望ましい。このように、一つの娯楽の方法として、「カラオケ」はそのまま世界に通じる言葉になる。英語や中国語はもとより、周りの同僚に聞いたら、ドイツ語も、ロシア語も、フランス語もそっくりそのままこれを受け入れている。まさに数少ない和製世界語の一つなのだ。いうまでもなく、それぞれの言語のなかでは、「空っぽの」という意味はまったく顔を出す余裕がない。考えようによれば、これはまさに「ポッドキャスト」の反対側の実例だ。一つの日本語の言葉が、意訳ができないままそのコンセプトが一人歩きをし、意味の通じる訳語が生まれる可能性が求められないで世界の言葉になった。

商業ベースのカラオケ環境の提供とともに、パソコン使用の世界ではカラオケをいろいろな形で楽しむ可能性がたくさん生まれた。スタンダードの音楽にテキストファイルを用いてのカラオケ字幕作成は実に手軽にできるようになった。そう言うわたしも、今日の作業の一つとして、歌詞字幕を作成する方法の一つを覚えて、学生たちに日本の歌を習わせるファイルを作った。ちなみに、最初に選んだ歌はSMAPの「ありがとう」。学生たちに受け入れられるのだろうか。

"karaoke" is a good example that a Japanese word became a world-wide concept. Today, I learnt a way to make a computer lyric file. It is for a popular song by SMAP and I hope that my students may like it at the next class.

駄歌詞屋本舗

2007年4月24日火曜日

犯罪者の肩書き


日本からの毎日の映像ニュースは、NHKの番組のみだ。リアルタイムの夜の一時間のニュースは、毎朝の楽しみだ。

今日のニュースの一点、言葉の表現にはかなり引っかかった。イギリスから来た女性の殺害事件の判決で、容疑者無罪との内容だ。しかしながら、あくまでも証拠不足のための結果であり、ふつうにいう冤罪というものではなかった。というのは、容疑者となる人物は他の数件の殺人事件の罪で告訴され、かつすでに実刑判決を受けている。そのような犯罪者のことを、ニュースキャスターは、「○○社長」との連発だった。容疑者となる人物は逮捕された時点では不動産管理会社の社長だったようだが、でもどう考えてもそれがいまの肩書きだとは思えない。今現在の身分で呼ぶものだったら、被告、あるいは受刑者、というべきところだろうか。

日本語では、人の苗字を肩書き付きで呼ぶというのが礼儀だとされる。その肩書きが多種多様で、職業名、職名、官位などがあげられ、そこに話し手の敬意が込められる。肩書き、あるいは「様」を付け忘れた「呼び捨て」とは、初心者にありがちな間違いだと学生時代は繰り返し教われ、そして英語話者の学生たちに伝えるのも怠らなかった。それと考えあわせたら、これは逆のケースだと言えよう。敬意を払いすぎて、聞く人には非常に耳障りだ。

NHKの話し方は、いまの日本語の基準だという共通の理解を人々が持っている。その分、言葉の表現上のNHKウォッチングも、きっとたくさんの人々が試みているに違いない。有識者の意見を聞きたい。

As a basic rule, one has to address other people with his/her title in order to expressing the respect. On the other hand, we may also count into situations where such an address was somehow over-given.

NHKオンライン

2007年4月23日月曜日

辞書


思い出してみれば、日本語を習いはじめたころ、学校には図書館という施設をもっていなかった。そんな時代、辞書といえば、ただ一冊の日本語辞典。それも三十二人のクラスで共有し、辞書調べをするためには順番を待たなければならなかった。いまなら考えられない光景だ。

学生として日本に渡って、図書館や研究室の本棚を見れば、とにかく辞書というものの多さには圧倒された。古典研究の分野となると、メインの古典のタイトルには一冊の辞書というのが常識であり、源氏物語については十冊を下らないものがずらっと並び、それもどんどん新しいものの刊行が続いた。日本語の辞書の種類の多さは言うを持たず、一番規模の大きいものは二十冊だった。辞書というもんは、こうあるべきだと、日本文化への、いささかオーバーに言えば日本文化を通じて文明への開眼だった。

そのような辞書も、いつの間にか実用の第一線からじりじりと後退し、電子メディアに支配の座を譲りはじめた。もともと辞書というものは、電子メディアによく似合う。縦横に調べたり、目指すところに簡単にたどり着いたりするための機能は、紙に印刷されたいかなる索引にも優れている。電子辞書を丁寧に集めて、CD-ROMの棚に入れ始めたと思えば、いまやオンラインのものが主導を握るようになった。使う用途に沿った辞書さえ分かれば、じつに使い心地がよい。

電子辞書のおかげで、知識への求め方も、そして基礎知識の持ち方も否応なし変わった。身近のことで言えば、漢字の部首や画数を正しく把握することはほとんど期待されなくなった。かつては正確さが要求されたが、いまや辞書のほうがぐんとこっちに寄ってきて、「あいまい検索」とかいって、何でも親切に対応してくれる。昔に比べれば、はたして恵まれたというのか、それとも過剰に甘やかされたと捉えるべきだろうか。

このような傾向への不安も聞こえる。だが、いかなる抵抗や心配があっても、辞書が代表するような基礎知識の提供は、やがて空気や水のようにわれわれの周りを溢れる時は確実にやってくるだろう。それに伴い、われわれの知識も、教育の内容も変質することだろう。そのような時代の流れに対して、不安を感じて嘆くのか、それとも苦労して操縦するのかとで、立場が大きく異なるものだといわざるをえない。

The first culture shock I received when I went to Japan for the first time was that there were so many different types of dictionaries. These days, dictionaries became to get into our life in an electronic format. We all have to be ready to meet this change.

weblio

2007年4月22日日曜日

母音の発音


半年に一度の日本語教師会の研修会が開かれた。二部構成の後半には、先日、日本語弁論大会ですてきな司会で参加者を魅了した桑野さんを講師に迎えて、日本語の発音について語ってもらった。

日本語の発音へのアプローチは、いろいろと考えられる。五つの母音に絞って見ても、その音質、発音の方法、子音や後続する音節との組み合わせなどを基準に分類しようと思えば、おそらく無数のルールが纏められるだろう。ところで今日の研修会で紹介されたのは、意外にも感性的なものだった。基本的な口の開き方、発音の要領に加え、つぎのコメントが教わった。曰く、「あ」の音はあかるく、「い」の音はかわいく、「お」の音は知的に発音すべき、とのこと。すなわち日本語の発音をぜんぶ正しくこなせれば、それだけで明るくて、知的で、かわいい話し方になる。自分の発音ではそういうことがとても可能だとは思えない。しかしながら、日本語の話し方を観察する、楽しむための一つの手がかりを手に入れたような感じだ。

思えば、同じ日本語と言っても、分かる日本語、正しい日本語、美しい日本語と、その一つひとつはまったく次元の異なるものだ。発音とは、まさしくよりよい日本語をめざすための大事な階段だと言えよう。

Here is an unique approach to a beautiful Japanese pronunciation. It is, as for the five Japanese vowels, a shall be cheerful, i shall be cute and o shall be intellectual.

NHK日本語発音アクセント辞典・利用の手引き

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