2007年7月3日火曜日

発言・失言


日本を賑わせる政治事件がまた一つ伝わってきた。晴れて「省」に昇格されたばかりの防衛省の最初の防衛相が「(原爆投下が)しょうがない」と講演で述べたことにより、辞職をした。

新聞やテレビは、もちろんいずれもこれを大きく取り扱う。さまざまな立場にいる政治家や有識者、一般民衆が各自の意見を述べる。だが、それを読んだり聞いたりしているうちに、事件の内容を伝える言葉の選び方には、なぜか違和感を感じる。いわば「発言問題」。事件の捉え方は、この言論を批判する政治家も民衆も、防衛相を庇おうとする首相も官邸も、そしてそのように述べた本人も、一様にこの言葉を使う。さらに不思議なのは、事件の結末が決まってからの、一部の新聞の報道などは、「失言」とまで述べたものだった。

考えてみれば妙なものだ。政治家というのは、いうまでもなく言葉をもって社会のための役目を果たす。一人ひとりの政治家が選ぶ言葉は、ほかでもなくその人の考えを伝えるものであり、その人の信念のはずだ。政治家の発言は、一言たりともたまたま口に上ってしまったようなものでは困る。人前で述べたものなら、本人はそれなりの責任を持たなければならないし、社会はそのように期待してしかるべきである。そもそも本人もそのような自負を持っておかなければならない。したがって、ことの本質は、けっしてなにを話したか、どの言葉を選んだかという「発言」にあるのではなく、その発言によって表された考え方なのだ。すなわち、一人の政治家としての意見、見解、見識なのである。

防衛相は、「しょうがない」という見解を持っているがゆえに、社会の常識に反し、そのために政務を続けられるほど信用されなくなる。したがって職務から離れる。これがこの政治事件のほんとうのありかただろう。ならばなぜ「見解」というような捉え方をしないのだろうか。本人の弁解的な言い方ならいざ知らず、これを真正面から批判する立場の人、メディアでさえ、まるで不本意なことを言い間違ってしまったかのように表現しているという、ここに見られる言葉表現の仕組みには歯がゆい。

あるいは、日本ならではの遠慮や配慮でも、表現者の心の揺れを作り出しているのだろうか。

There is a political scandal in Japan in these past three days and it ended as the result that a minister resigned from his position. Although the reason for this event was that this minister publicly stated an opinion which is clearly against the common sense, however it has been taken only as a problem of "a (wrong) statement".

朝日新聞の記事

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