2007年4月21日土曜日

ふりがな


「振り仮名」という呼び名は、どのように生まれたのだろうか。「振る」とは、「振りまく」、「振り回す」といった行為に関連する。したがって一つの文章に満遍なく仮名を散らばす、というイメージが伝わる。しかも振り仮名を「書く」などとは言わない。あくまでも「振る」のである。

思えば、これは日本語に漢字を用いるための付属的な結果だろう。漢字はどれも二つかそれ以上の読み方を持っていて、しかもその使い方は時代や状況によって生まれた語彙に付随して変容を続けてきた。だからこそ、振り仮名はただ文章力を持たない子供などだけを対象にする補助的なものではなく、書写される日本語の欠かせない一部分だ。このようなあり方は、この先も大きく変わることはなさそうだ。

日本語を外国語として学ぶ初心者の学生たちに向かって「振り仮名」を説明すれば、いつも余分なため息が聞こえてくる。「ひらがな」「カタカナ」のことを精一杯の努力で覚えたかれらには、この一言だけで無用のプレッシャーを与えかねない。そういえば、日本語にはさらに「送り仮名」「捨て仮名」があるんだ。日本語は奥が深い。

ちなみにパソコンを使えば、いまは英語バージョンのMSワードでも「Asian layout」と称して振り仮名に対応している。その機能の呼び名は、「phonetic guide」と言って、「音声的な補助」とでも訳すべきだろうか。(写真は長岡天満宮の境内にある看板の一部)

Each kanji in Japanese has two or more ways to read it. For this reason, in order to make the writing clear, Japanese article often requests furigana. This is a part of regular Japanese writing format, and in a computer word processing program, English MS Word, this is referred as "phonetic guide".

振り仮名表現の諸相

2007年4月20日金曜日

番地


日本の番地は、ややこしい。

「番地」とは、順番・番号をもつ土地、といったぐらいの意味だろう。問題はその順番はなにを基準にするか、ということだ。日本の場合、その番号が建物が面している大なり小なりの道路と関係がない。一つひとつの地域が任意に纏まり、その地域がさらに細かく分割されて番号が振り当てられる。したがって、その土地の番号が分かっていても、地図を広げてみなければその位置が分からない。

北米の町で生活してみれば、番地のあり方が相対的に見えてくる。ここでは番地のことを「ストリート・ナンバー」と呼ぶ。ストリートの名前まで数字にしているところには、たしかに素っ気無くて、町全体の新しさを感じさせる。だが、とにかく便利だ。建物とストリートの番号はそのままX軸とY軸の座標を成している。二つの番地を比較すれば、それの相対位置関係が一目で分かる。

たとえば東京の町を歩いてみると、番地を表記するきれいな看板が整頓されている。ただし、その土地のことがよく分からない通行者の便を考えてくれるものだったら、ただの番号ではなくて、それが位置する平面的な略図がぜひとも必要かもしれない。だれかそのような案を言い出さないのだろうか。

In Japan, even you knew a house number, it would still be difficult to find out the location. This all due to the numbering system. In short, a number is assigned based on a given area, but does not relate to the street or the road.

So-net 地図
BIGLOBE地図

2007年4月19日木曜日

今日は雪


四月も下旬に入る。日本では桜前線が福島県の鶴ケ城にまで北上し、テレビのニュース画面をにぎわせるのは、すでに気の早い鯉のぼりだ。しかしながら、ここカルガリーでは、朝目を開ければあたり一面の雪。思わずカメラを構えて、ベランダの一角を捉えた。

春が来ない。あるいは、雪のまま夏に突入してしまうかもしれない。

雪。これに因んだ言葉ならなにをあげるべきだろうか。すぐ頭をよぎるのは、「雪景色」、「雪化粧」、「雪深々」。なぜかどれも一世風靡した演歌のせりふだ。その一つひとつを思い返してみれば、どれも目の前の状況とマッチしているようで、どこかまったく関係のない、遠くかけ離れたものだ。

歌舞伎の世界では、「雪が鳴る」という。その雪の鳴る音は、太鼓の音に託される。となれば、目の前の静かで暖かい雪を見つめながら耳を欹てる。春の雨水にすぐ溶けてせせらぎと流れる季節の足音が聞こえそうだ。

It snows again, at the end of April. Never had this in many years, and it seems that in this year, the winter would never leave us along. However, when I try to listen to it, just following a Japanese expression, I can hear the sound of Spring...

雪たんけん館
SnowCrystals.com

2007年4月18日水曜日

言葉遊び

日本の街角で見かけた看板広告の一つ。タイトルの「こんばん和」とは、「今晩は、和(食)」とすぐに気づいた。これで看板の読み方のルールを心得たとばかりに、さっそくメニューのほうに目を移す。読み解くまでにはさすがに一苦労。試行錯誤に声に出して読み続けて、ようやく答えが見えてきた。どうやらつぎのような献立だ。


御夢烈・おんむれつ・オムレツ
素把月亭・すばげつてい・スバゲッティ
半場隅・はんばぐ・ハンバーグ
活気婦雷・かっきふらい・蛎フライ
相撲食佐門・すもうくうさもん・スモークサーモン
秘坐・ひざ・ピザ(略。絵をクリックして続きを挑戦してください。)

さすがに楽しい。知らず知らずにささやかなパズル解きの旅に誘われた思いになった。

解説するまでもなく、この言葉遊びは漢字とカタカナ言葉との距離をミソにしている。そして漢字の漢字たる所以の意味を無視して、それをただの表音記号として用いたのは、日本語における漢字使用の始まりだった。それが「万葉仮名」という。千年以上経ったいまにおいても、その万葉仮名という使い方は、人名や地名に残されて、完全に姿が消えたわけではない。いわば日本語の分かる人なら、その理屈を身に付けている。だからこそこのような言葉遊びに共感し、面白みを感じるのである。

もともとこれが飲み屋の広告のようだが、はたして和食なのか、洋食なのか、それとも和洋折衷なので、日本で生活していないわたしには、にわかに分からない。ちなみにこれが数年前の写真だ。同じ店がいまでもやっているとすれば、きっと新しいバージョンを出していることだろう。同じように楽しいに違いない。

It was an enjoyable challenge for me to read this advertisement from Japan. It applies kanji to express some popular western meal menu. As a principle, however, this way of using kanji represents a very old tradition, while Japanese people used Chinese characters only indicating sounds (syllables) but not meaning.

万葉仮名や年号の変換
ことば遊びの重箱

2007年4月17日火曜日

トイレ


学生たちには、自分でテーマを決めて東京を観察し、レポートするように要求した。戻ってきたテーマには、「トイレ」が入っている。日本のトイレ、どうやらそれだけで文化的な特徴を持っている。

思えばこれを表わす言葉がまず一つの風景を成している。普通のオフィスビルやデパートなど公共の場に入ってみれば、その標識には、おそらくつぎのものが平均に用いられている。「お手洗い」「便所」「トイレ」「W.C.」。それに絵標識、高級ホテルなどにみる「紳士」「淑女」、お寺などの由緒ある看板まで入れると、さらに多彩多様だ。異なる言葉が用途や用法の差をほとんど持たないで共存し、和・中・洋の完璧な折衷あるいは平等の観を呈する。

一つの事象にめぐって、それを捉える言葉が時の移り変わりに伴って変化し、あるいは使う主体や置かれる状況によって違う表現が選ばれるという言語の現象は、よく知られている。しかしながら、違う言葉が同じレベルで一つの事象を表わし、仲良く共存することは、おそらく日本語において一番簡単に確認できる現象だろう。

おかげで日本語学習の初心者たちには余計な苦労を強いる結果になることを付け加えたい。

There are a number of ways to indicate "washroom" in Japan. You can find them equally at signs in public places. These different expressions represent different origins in Japanese, Chinese and Western languages. It is, nonetheless, a headache for beginners of Japanese.

東京トイレマップ

2007年4月16日月曜日

ポッドキャスト


「ポッドキャスト」とは、いまや普通の日本語の言葉になった。わたしもそれを毎日のように楽しんでいる人の一人だ。日本からの気に入りのラジオ番組を小さなiPodに入れて持ち歩いていて、自分ひとりの時間がおかげで非常に有意義で楽しいものになった。

ポットキャストの仕組みや使い方はともかくとして、この言葉自体の意味を日本語のみで接している人ならどこまで分かっているのだろうか。はなはだ心もとない。ごく簡単に解説すれば、およそつぎのようなものだろう。言葉の由来は、あのアイ・ポッド。「アイ」とは、アイ・マックという新しいタイプのパソコンを世に送り出したアップル社の命名したもので、「individual(個人用)」の頭文字だとされる。そのシリーズものの一点としてアイ・ポッドが作られ、「ポッド」とは大豆のさや、転じて武器などの格納庫を意味し、とりあえず「個人用(音楽の)格納庫」といった意味だ。ちなみにこの「アイ」シリーズのつぎの作品はほぼ二ヶ月後に販売予定の「アイ・フォン」である。宣伝だけみれば日本のたいていの携帯電話が当然のように搭載している機能しか持たず、どこに人を惹きつける魅力があるのかいまだ分からないシロモノだ。「アイ・ポッド」に戻るが、その魅力とは、確立されたMP3のフォーマットをベースにしたことであり、音楽など音声の資料をいかに便利に提供することに工夫したところにある。おかげで在来の「放送」との合体が実現できた。英語の言葉遊びの定番として、「iPod」と「broadcast」の二つの言葉が合体して、「podcast」という新語が出来上がった。日本語に直せば、さしずめ「アイ・ポッドによる放送」というところだろう。造語の妙味は、まさに英語話者の人ならだれでも簡単に理解できるところにある。もともと、場合によってはこれが誤解を招くぐらいのオーバーなもので、あのアイ・ポッドがリアルタイムで放送をキャッチできるものだと不思議に思う人が後を絶たない。

そこでこの英語の言葉はそのまま日本語になった。自然なことに、「ボロードキャスト」という言葉を用いない日本語としては、この用語の意味は一向に伝わらない。一方では、言葉が伝わらなくても、それが指す中味が、言葉に頼らないでどんどん成長し、成熟することは大いに可能だ。「ポッドキャスト」はまさにその格好の実例だ。日本語の言葉としては、「放送」という意味合いを読み取れなくても、この技術の応用にはいっこうに差し支えはなかった。ポッドキャストとは、とにかくその素晴らしい中味と伴って人々の生活に定着していった。いわば、適当な訳語に辿りつくまえに、まるごと一つの外来のコンセプトとして、ポットキャストは日本でその市民権を得たのである。いまになれば、すでに生命を持ち始めた「ポッドキャスト」は、言葉としてより意味の分かりやすいものにたどり着く可能性を持たない。

一世風靡の電子製品には、ソニーの「ウォークマン」がつねに語り草になっている。英語の造語まで流行らせたものだから、文化的な現象だったと謳われていた。その目で見れば、ポッドキャストは、まさに国境を越えた今時の文化の花形だ。しかも一つの製品がまわりの産業まで巻き込んだという意味では、まさにもう一つの新たなスタンダードを立ち上げたといわざるをえない。

"Podcast" became to be a popular Japanese word. However, as there is a Japanese way to express "broadcast", most Japanese speakers do not know where does "-cast" come from, thus eventually they accepted this concept without knowing much about the meaning of the word.

YAHOO!ポッドキャスト

2007年4月15日日曜日

臙脂色


学生たちが主役となるWEBページを二つほど立ち上げた。それのベースとなる色は、大学のロゴや大学サイトの公式色とのバランスから考えて、臙脂色(えんじいろ)を用いた。

色は、とにかく奥が深い。WEBページのデザインとなると、最終的にそれがすべて16進数のコードとなる。色の種類もしたがってコードの組み合わせの数だけあって、とても一々見分けられるようなものではない。しかも大事なのは、ベース色の選び方ではなくて、それの使い方だ。一つの色は、それを盛り立てる周りの色の存在によって生きてくる。基本的な知識を持ち合わせないまま、気が遠くなるような可能性に圧倒されて、ついついそれを敬遠してしまうのは、わたし一人だけだろうか。

一方では、そのような奥深い色と色の組み合わせは、的確で由緒ある言葉をもって捉えるということは、まさに文化と伝統の成せるワザである。日本語では、色を表現する言葉がとりわけ大事にされてきた。遠く千年以上前の平安の用語で言えば、それが襲(かさね)と呼ばれた。季節の移り変わりや自然の風物に溶け込む豊富な色と無尽の組み合わせを豊かな語彙で捉え、伝えていた。一つの言葉と特定の色との対応にはずれも予想されるが、それ以上に、人々はその要素を最小限にし、対応の体系を整えるように弛まない努力を続けてきた。

因みに、「臙脂色」という言葉はそんなに古くなく、おそらく百年単位の歴史しかない。この言葉に力強い感情をつぎ込んだのは、一人の明治時代の歌人だ。その歌では、この色は熱い血潮を表現するものとして用いられ、情熱の色と位置づけられた。この感性は、今日になっても人々に共有されていると言えよう。

臙脂色は/誰にかたらむ/血のゆらぎ
春のおもひの/さかりの命(与謝野晶子『みだれ髪』)

Designing two webpages for my students, I decided to use dark red as the base color. Can you find a specific word to indicate this color? Can you associate this color with a feeling which most people can agree with? In the Japanese understanding, however, we have a clear answer.

原色大辞典
襲色目と重色目

とろける・とける


ラジオを聴いて、楽しい会話の一こまがあった。「(人間が)とろけた」との発言があって、それを受けたアナウンサーがすかさず「とけた」と直した。

「とける」と「とろける」。まるきり違う言葉のようでもあり、かなり似通ったもののようでもある。はたしてその本質の差はどこにあるのでしょうか。辞書を調べてみれば、前者は固体が液体になること、後者は固まったものがやわらかいものになることをそれぞれ指す。辞書的な用例ですと、前者は氷、後者はバターを持ってくる。いかにも分かりやすい。でも、両者の意味範囲の外縁にあるものが互いに交差し、それがもたらす微妙なニュアンスこそ表現のミソである。言う人の気持ちがそこに集中され、集約されてしまうとさえ言えよう。

ここ数日、「氷が溶ける」というのが、一つの政治用語としてニュースを賑わせている。中国首相の訪日を語る中国メディアの造語を日本メディアが苦労して訳したものだ。「破氷」「融氷」と中国語らしい言葉の綾をありのまま伝えることはとうてい難しい。一方では、長い冬に包まれるカナダのロッキー山脈はようやく春を迎えた。ひと冬凍った氷が溶けはじめると、細長い棒となって川の表面を絨毯のように敷き詰める。ここでは「氷が溶ける」という表現を用いても、異なるイメージを指すことになる。(C.Y.撮影)

Both these two words mean "to melt" but they are often used in rather different situations. Here at a popular radio talk show, the hosts had some difficulty to decide which one to use for describing a situation involving human beings. On the other hand, at the Rocky, we see an unique scene while the ice became to melt in the Spring.

コラムの花道(4/13)

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