2007年10月2日火曜日

ブログ・絵巻三昧

八月の下旬から今年に入ってからの二回目の東京生活を始めた。今度はやや長めの滞在で、来年の四月終わりまでという計画である。

当面の課題は絵巻の研究。しばらくはこのブログを休止にして、絵巻にまつわることを書き記してみたいと思う。興味のある方は、ぜひそちらへお立ち寄りください。

I am in Tokyo again. This time, I am doing research and the theme is on medieval Japanese picture scrolls. If you are interested in that topic, please take a look at my new blog, 絵巻三昧, it is all about Emaki.


2007年7月3日火曜日

発言・失言


日本を賑わせる政治事件がまた一つ伝わってきた。晴れて「省」に昇格されたばかりの防衛省の最初の防衛相が「(原爆投下が)しょうがない」と講演で述べたことにより、辞職をした。

新聞やテレビは、もちろんいずれもこれを大きく取り扱う。さまざまな立場にいる政治家や有識者、一般民衆が各自の意見を述べる。だが、それを読んだり聞いたりしているうちに、事件の内容を伝える言葉の選び方には、なぜか違和感を感じる。いわば「発言問題」。事件の捉え方は、この言論を批判する政治家も民衆も、防衛相を庇おうとする首相も官邸も、そしてそのように述べた本人も、一様にこの言葉を使う。さらに不思議なのは、事件の結末が決まってからの、一部の新聞の報道などは、「失言」とまで述べたものだった。

考えてみれば妙なものだ。政治家というのは、いうまでもなく言葉をもって社会のための役目を果たす。一人ひとりの政治家が選ぶ言葉は、ほかでもなくその人の考えを伝えるものであり、その人の信念のはずだ。政治家の発言は、一言たりともたまたま口に上ってしまったようなものでは困る。人前で述べたものなら、本人はそれなりの責任を持たなければならないし、社会はそのように期待してしかるべきである。そもそも本人もそのような自負を持っておかなければならない。したがって、ことの本質は、けっしてなにを話したか、どの言葉を選んだかという「発言」にあるのではなく、その発言によって表された考え方なのだ。すなわち、一人の政治家としての意見、見解、見識なのである。

防衛相は、「しょうがない」という見解を持っているがゆえに、社会の常識に反し、そのために政務を続けられるほど信用されなくなる。したがって職務から離れる。これがこの政治事件のほんとうのありかただろう。ならばなぜ「見解」というような捉え方をしないのだろうか。本人の弁解的な言い方ならいざ知らず、これを真正面から批判する立場の人、メディアでさえ、まるで不本意なことを言い間違ってしまったかのように表現しているという、ここに見られる言葉表現の仕組みには歯がゆい。

あるいは、日本ならではの遠慮や配慮でも、表現者の心の揺れを作り出しているのだろうか。

There is a political scandal in Japan in these past three days and it ended as the result that a minister resigned from his position. Although the reason for this event was that this minister publicly stated an opinion which is clearly against the common sense, however it has been taken only as a problem of "a (wrong) statement".

朝日新聞の記事

2007年7月1日日曜日

准教授

新聞の記事、あるいは友人のサイトなどには、見慣れていない言葉に頻繁に出会うようになった。大学勤務の職名で、「准教授」という。最初のうちは、これは不注意による文字使いの間違いだとかなり自信をもって思ったのだが、調べてみれば、またまた自分の自信過剰だと分かった。なんと今年の春から実施し始めた「学校教育法」によるものだった。

「准」とは、いうまでもなく「準じる」ことを意味する。ここの場合、すなわちいまだ教授ではなくて、それに準じて、ほぼ教授になる、ということだろう。「准教授」の次は、昇進して「教授」になるものだから、教授よりは一つ手前のステップ、あるいはポストと考えてよかろう。だが、新しく実施した教育法は、「助教授」というのを止めてこの職名を用いたものだ。その理由は、順位からにして教授より一つ手前の職でも、独立して指導や教育に当たるものだから、「教授を助ける」という言い方は望ましくない、との考えなようだ。長年続けてきた大学教員の仕組みのなかで、「助教授」とははたしてここまで字面から使用されたり、理解されたりしてきたものかと、不思議に思った。

それよりも、以上の考えをそのまま取り入れるとしても、はたしてどうして「準」という文字を使わないで、わざわざ難解で用例の少ない「准」という文字を選んだのだろうか。これだけすべての大学の人事関係に影響を及ぼす法律の改正で、このような文字選びをしてしまうという、漢字感覚そのものに首を傾げる思いがする。いわば珍しいもののほうが、言葉の新味やインパクトを増す、という考えでも裏に働いているものだろうか。

There is a new name for the old positing of university professors in Japan according to the new Law of School Education. In this name, a rarely used character was given a spotlight.

学校教育法

2007年6月19日火曜日

音声付き作品

当たり前のことだが、サーチを掛ければ豊富な情報と出会えるインターネットでは、こちらから進んで探し求めてみないと、なにも現われてこない。そこでほぼ半分習慣になって、本屋に入って本棚の間を歩き回るのと似たような感覚であれこれと検索をしてみる。その中で気づいた言葉の一つは、「音声付き作品」。こういうキーワードもあるものだと、率直な感想だった。

そもそも日本語の作品は、音声になっているものがあまりにも少ない。二年ほど前からの、ポッドキャストという方法が普及して以来、事情はかなり変わったと言えよう。表現の可能性を探る真摯な個人による発信に加えて、大手の放送局が番組の小さな部分をショーウィンドーのように公開して、日常的に聞くべき内容が大きく増えた。それに朗読を志す人々は、表現のレベルを上げようと切磋琢磨する。このような展開の中で、明らかに抜けているのは、小説などの読み物類を音声化する動きだ。そこですぐに持ち出されるのは、著作権をめぐる議論である。いうまでもなく音声を出版というルートに載せるためには、まさに書物などの著作権を持っている出版社あるいは作者自身が仕掛けるべきことなのだ。いまのような、ごく小部数の出版と、普通の消費者が手の届かないような値段の設定は、とてもそれを広める方向を示しているとは思えない。

このことを友人と議論すれば、日本人が読書を習慣としても、朗読を聴くを受け入れないのではないかととの考えを聞く。そうなのかもしれない。でも、逆のことも言える。ストーリを音声をもって楽しむ伝統は、昔からたしかに認められる。そして、読書を置き換えるのではなく、それと棲み分ける、読者の違う時間とスタイルに応えるということは、まさに新しい習慣として望まれることだ。

音声による読書は、きっと広まる思う。そのような展開は、いつ、どこで、どのようにやってくるのだろうか。これに関心をもつものとして、どのように寄与できるのだろうか、よく自分に問いかける質問である。

With the development of Podcast, we became to be able to access to many aural materials. However, it is still the case that, comparing with the English world, there are much fewer such materials in Japanese.

しみじみと朗読に聴き入りたい
Blog 表現よみ作品集

2007年6月14日木曜日

感情労働

まったく聞きなれない言葉だが、「感情労働」が議論されているそうだ。いわば「体力労働」「知的労働」に対するもので、雇用関係においての、体力あるいは知力を賃金の代償として支出する代わりに、あるいはそれと共に、個人的な感情もそれに数えいれる、との考え方である。フライト添乗員をはじめ、接客業の仕事にはこれがつき物だとされる。そして、教師、国家公務員など公の場にいる人間は、仕事の立場から自分の感情を押さえて勤めなければならないというありかたが、この議論の引き金となる。

労働という概念は、そもそも西洋的なものであり、ここに感情を取り上げるというのもアメリカの学者が言い始めたものだとのこと。しかしながら、実感としては、個人というものを無にして仕事に携わり、言葉遣いをまったく非日常的なものにしてまで、客にサービスを提供するという姿勢を明らかにして役目に向かうという、一種の誇張した仕事の倫理は、日本でこそ強く、広くみられるものだ。短期間の日本訪問などとなれば、そのような光景がとりわけ目に焼く。そのようなまるで仕事場における自身の晴れの姿とでも受け取り、それを誇らしげに見せようとする振る舞いは、幾度となく「日本的だ」と感心したものだった。それに対して、カナダとかのようなところでは、そのような努力をしない、あるいはそれを追求しない、という姿勢だ。あるいはそれが日常ではないだけに、西洋の学者がそれを敏感に感じとり、意識敵に取り上げた、ということだろうか。

知識も体力も、なにかを代償にもらって、他人のために使ってあげる、ということは、労働という概念の基本だろう。その意味では、感情とはいたって個人的なもので、なにかとの交換には抵抗を感じるだろう。これを労働に組み入れてしまうと、とたんに変質をもたらす。さらに言えば、消費者の立場から言えば、他人の感情まで消費しているというのは、いったいどういうことだろうか。

This is a Japanese translation of the concept "Emotional Labour". One has to say that there is a much stronger working moral or style to hide personal emotion in a working position in the Japanese society.

労働の科学

2007年6月11日月曜日

禁止表現


人に特定のことをしないように指示する禁止表現。どの言葉においてもこれが微妙なものだ。指示をはっきりしなければならない。だが、望ましくない行動がすでに発生したというわけではなく、表現そのものをできるだけソフトで丁寧にしなければならない。言い回しと発想の妙が競われる。

言語教師という立場上、表現をついつい形の上から分類をしはじめる。初心者も分かるような文型なら、「てはいけない」「てはならない」をまずあげる。「ないでください」と続ける。「○○するな」も分かりやすいが、ただし用途が限定されていて、日本語クラスでは意外と多くは取り上げられていない。また、街角に張り出される看板類になれば、「○○禁止」「○○厳禁」となって、漢字の語彙を用いる。このようにあげていけば、さらにいくらもパターンがあるに違いない。

おそらく一番日本語らしい禁止表現は、「○○をご遠慮ください」ではなかろうか。いわば漢字を用いた和語で、その発想もじつに遠まわしをしていて、かつはっきりしている。さらにいけば、「禁煙のご協力をお願いします」のような文句になると、禁止の指示をしていながらもすでに禁止表現から離れたと言わなければならない。

Occasionally we see a public note such as "Thank you for not doing..". In Japanese, there are rich expressions to carry out this very similar idea.

2007年6月9日土曜日

語学留学


一ヶ月にわたる短期語学留学はあっという間に終わった。留学の正式な終了日は六月七日。しかしながらその日に東京から離れてカルガリーに戻ってきたのは、なんと引率の私ともう一人の学生だけだった。その学生も八月に一年の交換留学を控えての、言ってみればカナダへの「一時帰国」だった。残りの生徒たちは、短い日本観光、あるいはアジアの国へと、元気よく旅を続けている。

わずか一ヶ月の留学だったが、学生たちはほんとうによく頑張った。よく学び、よく遊び、よくしょべる。睡眠を、食事を飛ばしても、クラスやレポートの締め切りをきちんと守り、そして仲良く助け合った。いったいどこからそのような元気が来たのかと、つくづく不思議に思った。若ものたちのパワーを改めて認識した経験となった。

戻ってきてからは、「学生たちの語学力がよくなったか」と、周りから何回となく聞かれた。どうだろうか。あるいは、そもそも語学というものは一ヶ月で激変するようなものではない。どんなに優れた勉強の仕方でも、学習者を短期間に見違えるほどの飛躍を与えるようなことがないとひそかに信じている。ならば語学留学の真価はどこにあるのだろうか。学習者と学習内容との距離をいっぺんに縮めた、ということにあるのではなかろうか。すなわち語学にどんなに自信のない人でも、本ものの外国語の環境の中に放り込まれてしまえば、なんとかなる、話せば通じる、努力すれば上達に繋がる、という実感を身に付けるものだ。語学の飛躍があるとすれば、このような実感が一つの大きなステップに違いない。

学生たちの成長が待ち遠しい。

このようにして、この小さなブログも一通り当初の予定を完成した。書いていながら、楽しい時間を過ごせた。しばらくはこれを続けるようにしよう。更新の間隔を開いて、思いつきを記し続けよう。

The Credit Travel program has completed on June 7th. It was a great program and the most valuable thing is the real experience for each student to learn and to use the language in the real life. This will be an important step for the students for their future learning.

フォト日記

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