2007年6月19日火曜日

音声付き作品

当たり前のことだが、サーチを掛ければ豊富な情報と出会えるインターネットでは、こちらから進んで探し求めてみないと、なにも現われてこない。そこでほぼ半分習慣になって、本屋に入って本棚の間を歩き回るのと似たような感覚であれこれと検索をしてみる。その中で気づいた言葉の一つは、「音声付き作品」。こういうキーワードもあるものだと、率直な感想だった。

そもそも日本語の作品は、音声になっているものがあまりにも少ない。二年ほど前からの、ポッドキャストという方法が普及して以来、事情はかなり変わったと言えよう。表現の可能性を探る真摯な個人による発信に加えて、大手の放送局が番組の小さな部分をショーウィンドーのように公開して、日常的に聞くべき内容が大きく増えた。それに朗読を志す人々は、表現のレベルを上げようと切磋琢磨する。このような展開の中で、明らかに抜けているのは、小説などの読み物類を音声化する動きだ。そこですぐに持ち出されるのは、著作権をめぐる議論である。いうまでもなく音声を出版というルートに載せるためには、まさに書物などの著作権を持っている出版社あるいは作者自身が仕掛けるべきことなのだ。いまのような、ごく小部数の出版と、普通の消費者が手の届かないような値段の設定は、とてもそれを広める方向を示しているとは思えない。

このことを友人と議論すれば、日本人が読書を習慣としても、朗読を聴くを受け入れないのではないかととの考えを聞く。そうなのかもしれない。でも、逆のことも言える。ストーリを音声をもって楽しむ伝統は、昔からたしかに認められる。そして、読書を置き換えるのではなく、それと棲み分ける、読者の違う時間とスタイルに応えるということは、まさに新しい習慣として望まれることだ。

音声による読書は、きっと広まる思う。そのような展開は、いつ、どこで、どのようにやってくるのだろうか。これに関心をもつものとして、どのように寄与できるのだろうか、よく自分に問いかける質問である。

With the development of Podcast, we became to be able to access to many aural materials. However, it is still the case that, comparing with the English world, there are much fewer such materials in Japanese.

しみじみと朗読に聴き入りたい
Blog 表現よみ作品集

2007年6月14日木曜日

感情労働

まったく聞きなれない言葉だが、「感情労働」が議論されているそうだ。いわば「体力労働」「知的労働」に対するもので、雇用関係においての、体力あるいは知力を賃金の代償として支出する代わりに、あるいはそれと共に、個人的な感情もそれに数えいれる、との考え方である。フライト添乗員をはじめ、接客業の仕事にはこれがつき物だとされる。そして、教師、国家公務員など公の場にいる人間は、仕事の立場から自分の感情を押さえて勤めなければならないというありかたが、この議論の引き金となる。

労働という概念は、そもそも西洋的なものであり、ここに感情を取り上げるというのもアメリカの学者が言い始めたものだとのこと。しかしながら、実感としては、個人というものを無にして仕事に携わり、言葉遣いをまったく非日常的なものにしてまで、客にサービスを提供するという姿勢を明らかにして役目に向かうという、一種の誇張した仕事の倫理は、日本でこそ強く、広くみられるものだ。短期間の日本訪問などとなれば、そのような光景がとりわけ目に焼く。そのようなまるで仕事場における自身の晴れの姿とでも受け取り、それを誇らしげに見せようとする振る舞いは、幾度となく「日本的だ」と感心したものだった。それに対して、カナダとかのようなところでは、そのような努力をしない、あるいはそれを追求しない、という姿勢だ。あるいはそれが日常ではないだけに、西洋の学者がそれを敏感に感じとり、意識敵に取り上げた、ということだろうか。

知識も体力も、なにかを代償にもらって、他人のために使ってあげる、ということは、労働という概念の基本だろう。その意味では、感情とはいたって個人的なもので、なにかとの交換には抵抗を感じるだろう。これを労働に組み入れてしまうと、とたんに変質をもたらす。さらに言えば、消費者の立場から言えば、他人の感情まで消費しているというのは、いったいどういうことだろうか。

This is a Japanese translation of the concept "Emotional Labour". One has to say that there is a much stronger working moral or style to hide personal emotion in a working position in the Japanese society.

労働の科学

2007年6月11日月曜日

禁止表現


人に特定のことをしないように指示する禁止表現。どの言葉においてもこれが微妙なものだ。指示をはっきりしなければならない。だが、望ましくない行動がすでに発生したというわけではなく、表現そのものをできるだけソフトで丁寧にしなければならない。言い回しと発想の妙が競われる。

言語教師という立場上、表現をついつい形の上から分類をしはじめる。初心者も分かるような文型なら、「てはいけない」「てはならない」をまずあげる。「ないでください」と続ける。「○○するな」も分かりやすいが、ただし用途が限定されていて、日本語クラスでは意外と多くは取り上げられていない。また、街角に張り出される看板類になれば、「○○禁止」「○○厳禁」となって、漢字の語彙を用いる。このようにあげていけば、さらにいくらもパターンがあるに違いない。

おそらく一番日本語らしい禁止表現は、「○○をご遠慮ください」ではなかろうか。いわば漢字を用いた和語で、その発想もじつに遠まわしをしていて、かつはっきりしている。さらにいけば、「禁煙のご協力をお願いします」のような文句になると、禁止の指示をしていながらもすでに禁止表現から離れたと言わなければならない。

Occasionally we see a public note such as "Thank you for not doing..". In Japanese, there are rich expressions to carry out this very similar idea.

2007年6月9日土曜日

語学留学


一ヶ月にわたる短期語学留学はあっという間に終わった。留学の正式な終了日は六月七日。しかしながらその日に東京から離れてカルガリーに戻ってきたのは、なんと引率の私ともう一人の学生だけだった。その学生も八月に一年の交換留学を控えての、言ってみればカナダへの「一時帰国」だった。残りの生徒たちは、短い日本観光、あるいはアジアの国へと、元気よく旅を続けている。

わずか一ヶ月の留学だったが、学生たちはほんとうによく頑張った。よく学び、よく遊び、よくしょべる。睡眠を、食事を飛ばしても、クラスやレポートの締め切りをきちんと守り、そして仲良く助け合った。いったいどこからそのような元気が来たのかと、つくづく不思議に思った。若ものたちのパワーを改めて認識した経験となった。

戻ってきてからは、「学生たちの語学力がよくなったか」と、周りから何回となく聞かれた。どうだろうか。あるいは、そもそも語学というものは一ヶ月で激変するようなものではない。どんなに優れた勉強の仕方でも、学習者を短期間に見違えるほどの飛躍を与えるようなことがないとひそかに信じている。ならば語学留学の真価はどこにあるのだろうか。学習者と学習内容との距離をいっぺんに縮めた、ということにあるのではなかろうか。すなわち語学にどんなに自信のない人でも、本ものの外国語の環境の中に放り込まれてしまえば、なんとかなる、話せば通じる、努力すれば上達に繋がる、という実感を身に付けるものだ。語学の飛躍があるとすれば、このような実感が一つの大きなステップに違いない。

学生たちの成長が待ち遠しい。

このようにして、この小さなブログも一通り当初の予定を完成した。書いていながら、楽しい時間を過ごせた。しばらくはこれを続けるようにしよう。更新の間隔を開いて、思いつきを記し続けよう。

The Credit Travel program has completed on June 7th. It was a great program and the most valuable thing is the real experience for each student to learn and to use the language in the real life. This will be an important step for the students for their future learning.

フォト日記

2007年6月6日水曜日

君とアリエール


日本にいないと、テレビコマーシャルが目に、耳に飛び込んでくることはまずない。インターネットなどからは、コマーシャルそのものを見ようと思えばできないことはなく、一昔まえの環境とはかなり違うようになった。しかしながら、コマーシャルはやはり無防備で無作為に入ってくるべきものだ。それだからこそ、繰り返し聞いているうちに、気づいてくることがある。

その中では、頻繁に登場し、かつおおかたよい印象を残しているのは、「君とアリエール」だ。洗剤の広告だから、これからの露の季節に向けて、いっそう露出度が高くなるだろう。

このキャッチフレーズの妙は、いうまでもなく言葉の響きにある。商品名はこの広告の設定のために付けたのだとはとても思えない。でも、とにかく聞いていて、心地よい。暖かい家族の中での「君」と「アリエール」、そして「君とあり得る」。このように答えまで書いてしまえばどこか落ち着きのなさも感じさせるが、フレーズの響きはそのような連想をはっきりと誘い出そうとしている。

このような言葉の遊びは、日本語の中では一つの定番だ。コマーシャルの作りにも枚挙に暇ない。古い考え方でいえば、掛詞。しかしここではおそらくそれにも当たらない。言葉のしゃれ、場合によっては駄洒落、といったところだろうか。

コマーシャルの終極の目的は、商品の認知度を植えつけることにある。その意味で言えば、新しい言葉を作り出すのも、言葉遊びをやってみせるというのも、あくまでも手段だ。そのような手段がもしも商品とともに大当たりをし、新しい言葉を作り出すことがあれば、それはすでにコマーシャルの役目を大きく上回ったことだけを記しておこう。

To mean two things at once, or to hint another issue with one prepared expression, this is a basic embellishment in Japanese. One can find many examples in TV commercials.

アリエール

2007年6月5日火曜日

熟成多加水麺


カタカナ言葉についての話題が続いた。今日は漢字言葉をとりあげる。

街を歩くと、看板の数はさすがに多い。そして、あまりにも情報が溢れていて、その中では明らかに必要としない、交流や伝達にはほとんど意味を持たないようなものがある。眺めていて、考えてみればみるほど、戸惑いを感じざるをえない。

たとえば、これは中華料理のチェーンの店に貼り出された広告の一部だ。麺の材料を説明している。「国産小麦粉」というのは、品質に拘る消費者への訴えとして頷ける。ただ「熟成多加水麺」とは、いったいどういうことだろうか。小麦粉を麺に仕立てるために、水を多用して、熟成させるといったような特別なプロセスだとの説明がサイトに載っている。そのような処理はきっとおいしさに関連があると素直に信じるとしても、一つの表現としては、どうしても抵抗を感ぜずにはいられない。漢字の並べ方は、日本語表現の基本に従っていない。もちろん中国語とはほど遠い。そもそも、「ジュクセイタカスイメン」とでも読むのだろうか。口に出して読めば、まずは確実に通じない。このようなフレーズを案出した人は、きっと口頭での伝達など、最初から考えていない。残されたのは、むしろ読めそうもないという言葉になんとなく高級感を求め、漢字の羅列に視覚的な効果を期待したのだろう。

はたしてこのような情報伝達の方法、漢字羅列ということへの感覚、どれぐらいの人が共鳴を持ちえるのだろうか。

Many new kanji words are created and introduced into the daily use every day. However, some of them do not have a strong potential of communication. Here is one such example.

ラーメン館

CAJLEニュースレター

学生たちとの語学研修の間にも、カナダでの日常的な仕事も続けている。その一つは、CAJLEニュースレターの編集である。素晴らしい編集チームの共同作業で、夏の号は時間通りに作成できた。わたしが担当しているコラムでは、このブログについて記してみた。カナダの日本語教師もこのブログを読んでくれることを願いつつ。

CAJLEニュースレター・巻頭言

2007年6月3日日曜日

アイリバー


電気製品をショッピングするのは、日本での短い滞在の楽しみの一つだ。店員たちは、みんなしっかりした知識を持っていて、対応が丁寧だ。それでも、普通はカラフルに用意されているパンフレットをじっくりと読んで吟味し、店員とたくさんの会話をしない。そこで、いざ口を開いてみれば、やはり日本語になっていない製品名に戸惑いを感じる。たとえば、今度、とても気に入った音楽プレーヤに出会った。名前は英語表記で、いかにも今風の「iriver」。それをついつい英語発音にしてしまい、店員はさすがに要領がよくて、すかさずカタカナ言葉で確認をしてくれた。「アイリバーでございますね。」言われてみれば、自分の要領なさに苦笑いした。

考えてみれば、この言葉には、英語のカタカナ発音のルール、特徴と問題点をすべて含んだと言えよう。「i」という母音は日本語になく、「アイ」という二つの母音に置き換える。一つの音が二拍になって倍になるが、もともとの発音に近い。「ri」にある母音は日本語にあるが、「r」はなくてつねに「l」と発音するから、自然と「リ」にする。「v」はなくて、日本語の子音の中で一番それに近い「b」に置き換え、「er」はなくて、「a」と「e」の中から近いほうを選ぶ。おまけに一つの母音が二つに、弱く発音した音節が強い一拍になったので、強く発音する最後の音節には倍の長さを与えて、長音とする。あわせて、アイ・リ・バー。

とても自然的な展開だ。ただし日本語になったものなので、英語での発音を持ち出したら、それこそヤボで、通じない。あたりまえの話だ。

While an English word being brought into Japanese and read in katakana, it has to follow Japanese rule of pronunciation. "iriver" is a perfect example to explore a few such basic rules.

iriver

2007年5月31日木曜日

~てほしい


これははたして一連の金属盗難の一件だろうか、それとも奇抜な盗賊物語に入るべきものだろうか。かつてテレビコマーシャルにまで登場したことのある黄金風呂が、丸ごとそのまま盗み出されてしまった。テレビ画面には、被害者のコメントが映し出される。かなり動揺した様子が、話し方に滲ませる。そしてそのハイライトには、つぎの発言があった。

「返してほしい。逮捕してほしい。」

これは、いうまでもなく自然な日本語だ。普通の日本人は、これを聞いて、被害者への同情がいっそう深まるに違いない。しかしながら、英語圏で生活していて、ついつい言葉を論理的に考えてしまうわたしには、立て続けに述べられた二つの訴えを理解し、その発想に追いつくために、やはり一瞬の空白を持った。この人が切実な表情をもって声を絞り出しながら語ったのは、まったく対立する立場の二つのグループの人間だった。いわば、犯人には、同情心をもって思い直して、盗んだものを返すように、そして警察にはさっそく行動して犯人を検挙してもらいたい、とのことだった。

日本語の中では、誰が、誰に対して、といった表現の要素は、言語の形よりも、言語の内容によって判断しなければならない。理屈で分かっていても、実際の用例の前では、やはり戸惑ってしまうことを改めて知った。

A general rule in Japanese is, while the situation is clear, the speaker will do all he/she can do to not indicate persons involved in the action. This is a rather extreme example.

黄金風呂

2007年5月30日水曜日

救済

これはかなり使い方の限られた言葉である。だが、ここ数日の日本の新聞やテレビにはこれが頻繁に登場し、さまざまな角度から議論されている。すなわち、五千万に上る人々の払った国民年金が行方不明になり、これをどう対応すべきかとのことだ。政府与党の提案では、特別法案を作り、これらの人々を「救済」する、ということである。

この言葉を始めて新聞などで読んだのは、すこし前の、いわゆる中国残留孤児についてのころだった。すでに老年に入ったそのような人々の生活環境のことがマスコミに取り上げられ、政府はいち早く「救済」との対応を打ち出した。政府からの助けの手があるものだと、日本のあり方を眺めながら、救済という言葉も妙に感銘を受けたと覚えている。

それに比べて、今度の場合、言葉としてむしろ唐突だ。そもそも年金の支払いを受けている政府自身の失敗だから、それを改めるというのが筋だろう。さらに言えば、礼儀を重んじる日本のことだから、謝りをし、弁償をする、ということまで考えられるのではなかろうか。そのようなところで、どうして弱者を助けてあげるというような文脈での用語が用いられうるのだろうか。支払いの記録がなくなったと言っても、もらったお金があるはずだから、なおさらその裏の理屈が分からない。

政治の世界に限らず、言葉は語彙の選択一つによって、物事の性格はがらりと変わってしまう。そして、だからこそ言葉に敏感な人はかならず意見を申し立てる。ことの推移を見守りたい。

A recent political issue is that, records on the payment of the National Pension for some 50 million people have been "lost", and to respond to this, the Government has a discussion to "save" the people who are intitle for the credit of the payment.

国会TV

カロリーカッター

朝起きてテレビを付けたら、料理の話題を早々に取り上げられている。人物紹介のコーナーらしく、カロリーを減らすという工夫が話題になっている。アナウンサーが連発するカロリー、カットといった言葉に混じり、スクリーンには、「カロリーカッター」と出ていた。読んでいて、思わず苦笑いをしてしまった。

思えばあまりにもいい加減な造語だ。英語の言葉を模擬っているというところだろうけど、そこで、日本語の語感はどうだろうか。なにせ「カッター」という普通の言葉になった外来語があるものだから、ここでの活用はいかにも唐突で、誤解を呼びやすい。このような造語を生み出し、あえて選び、興味津々に使うということは、興味深い。

活用と言えば、たとえばつぎのような用語も思い出される。「トラブった」。こちらのほうはいわば日本語の文例をなぞった活用の例だ。ただし「トラブらない」「トラブります」と聞いたことがない。あくまでも軽い気持ちで、楽しく言葉をいじった、といったところに、特徴があった。

言葉の表現は、通じることを大前提とする。その上、言葉遊び、言葉を気楽に置き換えたりして発想の奇を見せ、もって余裕を見せる。逆を言えば、正しい言葉、長続きの表現、ということを最初から目標としない。そのような言葉遣いの心構えをここ読み出したような思いがした。

Although they are called loan-words, many of them are not simply "borrowed" from other language. In stead, people may want to add certain changes to make the expressions colorful and fun.

独学英語道場

2007年5月27日日曜日

萌え~

週末になって、学生たちのグループの一つは秋葉原へ出かけた。一昔なら、免税品や掘り出し物の電化製品を目指す、というのが常識だったようだが、いまの若者には、そういうものが最初から目にないみたい。代わりに最初から堂々と宣言したのは、ずばり「メイドカフェ」だった。

電化製品とメイド、あまりにもミスマッチに見えてしまうのは、私だけだろうか。最初からジェンダーを消したところから生まれた、国籍も年齢も不明なアニメキャラクターには、どこにいまごろの若者をひきつける魅力をもっているのだろうか。これを文化の現象として考える人が多い。そしてなによりも一つの現象として現にそこにあるものだから、それを確認し、追認識して、あれこれと議論を展開してしまう。あるいはそれ自体、すでにいたって文化的な現象かもしれない。いずれにしても、不自然な発音法による、「萌え~」の連発、店に入れば、「お帰りなさい、主人さま」との掛け声、そして膝つくまでのポーズなど、一つひとつ感覚的に追いつかない。

考えてみれば、言葉って、長続きを前提に存在するとは限らない。その逆のケース、一過性のものだからこそ、言いようのない魅力と、一度は体験してみたいという衝動を掻き出すということもありえよう。それが流行という結果に繋がったのだろうか。

Students are aiming Akihabara, but not for electronic products. These days, pop-culture, along with unique expressions, forms another face of Japan.

秋葉原におけるメイド喫茶・コスプレ喫茶の歴史

2007年5月26日土曜日

ボディーランゲージ

今日のタイトルの言葉、そのままでは日本語になっているのだろうか。普通の人なら、おそらくもうすこし言い換えてみたくなるような気持ちをもつところだろう。かと言って、「身体言語」、あるいは「身振り手振りで」と言い換えたところで、すっきりなるものでもなさそうだ。英語の語彙としては非常に身近に感じられるもので、その分、日本語ではさほど特別に捉えられていなくて、一つの言葉として認知されていないと言えよう。

「ボディーランゲージ」には、大きく考えれば二つのグループに分類できるかと思う。一つは無意識のうちに言葉の表現にしたくない、するつもりのないものを体で表してしまうこと。もう一つは言葉で表現しきれないものを動作でもって補ってみること、である。前者は警察による容疑者の尋問を思い出せばすぐ分かるものであり、後者はまさに「身振り手振り」という表現が指すところだ。

日本人の、さらに言えば日本語話者による「身振り手振り」のボディーランゲージで、つねに話題になるものはいくつかある。たとえば人の前あるいは人々の間を横切るときの、片手を前に持ち上げながら差し出すポーズ。日本語のクラスや日本語のテキストにまでときどき取り上げられるぐらいの、日本的なものである。それから、けっして「面白かった」と意味しないから笑い。テレビを見ていても、時にはプロのアナウンサまで含めた登場人物たちの、意味のない笑いには目を見張る思いだ。いうまでもなく、日本語を共通言語とする環境のなかでは、それ自体が一つの風景になっていると、目に映るものだと付け加えたい。

A English speaker may feel that Japanese speakers laugh a lot. In fact, for many situations, such laughter do not indicate that "it was fun".

言葉の散歩道

2007年5月24日木曜日

無印・むじるし・MUJI


学生たちの研究レポートには、MUJIという店の名前が出てきた。無知な私の目にはまずは一つのなぞとして映った。こんな名前の店、それもどうやら有名そうで、何だったっけ?本人に聞くよりも、まずはインターネットで確認してみる。そしてめでたく一つ勉強になった。なんのことはない、「無印良品」のことだった。学生たちは英語でのレポート提出なので、りっぱに正しい書き方をしている。そして、おかげで店の名前を目で読んでいるばかりで、口に出して話したことがないだけに、「むいん」と言ってしまうような恥をかかないで済んだ。

それにしても、MUJIという英語のネーミングは、日本語話者には、はたしてどのように感じられるものだろうか。一つの人為的な英語の言葉としては、言いやすい、すぐ覚えてしまう、これといった誤解を招くようなほかの語彙はそうはない、といったような利点はたしかにある。そして日本語の言葉を全部出してしまえば、MUJIRUSHIと、いっぺんにRUとSHIという、二つの英語話者には通じない音が入ってしまう。そういう意味では、ネーミングとしては傑作だと言わなければならない。ただし、日本語話者にとっての、言葉の半分を切り捨ててしまうという違和感、「ムジ」という言葉の響き、どう収拾をつけたらいいのだろうか。わたしの独りよがりの杞憂に終わりたい。

そういえば、日本語には、重箱読みという読み方のルールがある。「重箱」とは何ものかと、およそほとんどの人にはもう通じなくなった。これからは、「無印読み」だと言い置き換えてみるのも、一つの手かも。

"MUJI" is a famous chane-store in Japan. In fact, the name of the store in Enslish is only half of it in Japanese.

MUJIAWARD

2007年5月21日月曜日

プロ意識


友人と雑談して、つぎのような見解を聞いた。「日本人気質の一つは、そのプロ意識にあり」と。言い得たりと、感心しきりだった。

言葉使い、日本語の語彙などをとりあげてみてもそのような実例にはいくらでも出会う。理髪店に入り、ヘアカットを待っている間に、なにげなく傍に置いてある雑誌をめくってみれば、カットを頼むにあたっての用語は、絵を添えて細かく解説してある。明らかに美容師との会話以外では、おそらく絶対に必要のない言葉だが、それでも理髪店、美容店に入れば、知っておいて「得」、というような前提で編集されていた。読んでみて、だれでも準プロになれるといった錯覚を持たせてしまう、不思議な文章だった。

思えば、どのような国、文化の中でもプロがいる。そして、そのようなプロの人々の間にしか通用しないような言葉がある。しかしながら、そのような言葉を自分なりに理解し、応用し、それをもって、一人の人間がさまざまなプロの分野に立ち入ってみたいという願望を持つ、というのが、日本的なものかもしれない。

Every professional field has its own vocabulary. In that sense, Japan is unique that many normal people tend to learn and to use real special expressions.

用語集

2007年5月20日日曜日

表札

表札とは、典型的な日本の風景の一つだ。いったん街裏の路地に入ると、大小の玄関の脇に掲げられた表札は、その家の家主の名前を書き込み、道行く人を見つめる。ぴかぴかと光っているもの、風雨に晒されて年月を感じさせるもの、それぞれ違う表情を見せて、あまりにも日本的なものだ。

ふと考えてみれば、そのような表札だって、時代の流れとともに多くの変化を見せている。すこし昔からのものなら、一家の主を記すだけに留まらず、夫婦の名前を並べて掲げ、とりわけたまに夫婦別姓の場合など、やはり目を引く。いまなら、名前よりも苗字だけという様子がぐんと増えた。それもローマ字表記が多く見かけられるようになり、表札のもともとの役目が薄れてゆく。やがて個人情報保護などの意識から、表札自体が消えたり、あるいはほかのなにかの形に取り替えられることでも起こりうるだろう。

学生時代の一つの思い出がある。クラスメートの中ではめでたく結婚して、一軒家を借りて住む友人がいて、みんなから羨望の目で見られていた。その友人が新居に引越しして早々、表札を書くようにとわたしに頼んできたのだ。なぜか恐縮しきったことだけはいつでも思いに残った。

This is a very Japanese view: each house has a plate with all the residents' name right in the front of the gate.

(この記事について、はじめて読者のコメントをいただいた。表題となる言葉の間違いを指摘してくれた。感謝。さっそく直した。)

2007年5月18日金曜日

「がんばります」


分かってはいるが、実際に生活してみて、まわりには「がんばります」という表現はやはり多く飛び交う。「がんばる」、「がんばろう」、「がんばって」。多くの場合、これを含め会話は真剣味も中身も伴わない。あくまでも挨拶なのだ。テレビをつければ、風水師が自分を頑張らせるためにという理由で仕事部屋を真っ赤に飾りつけ、コマーシャルの中では、一つひねくったキャッチフレーズとして、「頑張り過ぎない勇気」を用いる。

さてこれをどれかの外国語に訳そうと思えば、おそらくはまず一苦労。「ファイト」というのは、同じくコマーシャルのフレーズとしてずいぶんと楽しまれているのだが、これを英語話者に向かって発言してみれば、まずは怪訝な目で見返される。大げさにいえば価値観、文化の差、ということだが、そのような要素がすべて加算され、沈殿されたものが、このような挨拶用語に結集された、と考えられよう。

週末には、学生たちは一人ひとりホームステーに出かけた。日本語も文化も、そして人間もまったく知らないところに投げ出される思いで、一様に緊張しきった気持ちだった。そこで友人から掛けられた別れの挨拶は、「頑張って」でも、「行っていらっしゃい」でもなかった。「楽しんでください」というものだった。かれらに日本語を教える人には、ほほえましくて歯がゆい場面だった。言葉の正しい、間違いには、どこで線を引くべきだろうか。

Students were all very nervious while they were leaving for a homestay. The greating they exchanged at the moment of leaving was not "gabatte", but "tanoshinnde". It was an interesting moment to their language teachers.

あだ名

テレビから拾った話題を一つ。

「あだ名」が取り上げられた。もともと生活の至る場面、いろいろな段階でだれもが経験しているものなのだが、どうやらこれがビジネスにまで姿を現したのがニュースになった理由のようだ。会社の営業マンたちは、自分に「プラン太郎」だの、「カロリー花子」だのといった名前をつけて、これを名刺にまで印刷して、会社内外で使うようになった。いかにも営業らしい努力がにじませるような話題なのだ。

名前といえば、異なる文化の中ではその様相が大いに違う。中国なら、名前は時代の変化を映し出すものとして、その付け方や内容がどんどん変わる。カナダなら、移民の国らしく、多くの人はニックネームという軽い感じで自分に名前を付けて、読みやすくして、かつ男女の情報を対面するまえに相手に伝える。自分が実際に体験している文化が限られているが、もっともっと豊かな伝統やしきたりがあるはずだ。それを思い出せば、営業のためのあだ名って、いかにも日本のことに思われる。

眺めなおせば、ここでいっているあだ名とは、名前ではなくて苗字なのだ。日本の文化では、あだ名なら苗字として付けられるものだと、改めて気づいた。

The morning news was talking about a new trend of nicknames: people are using them for marketing promotion. In this case, people found a new nickname for his/her family name!

四こま:あだ名色々

2007年5月16日水曜日

ポイ捨て・白い象


今日は、一つ答えのないことを記して見る。

学生の一人が新宿の街角で撮った写真を持ってきて、説明を求めようとした。右の写真である。しかしながら、わたしにはさっぱり分からない。これはいったいなにを意図しているのだろうか。

標識の言いたいことは、およそ見当がつく。ポイ捨てと出ているから、空き缶などが対象になるだろうけど、ここではおそらくとりわけタバコの吸い捨て、歩きタバコのことを指すかと思われる。だが、そのような文脈には、どうして白い象が登場しなければならないのだろうか。インターネットで調べてみれば、新宿区、象のマーク、クリーンカー、など、これの裏づけとなる記事は何点も出ている。その中の一つは、象の形をしたクリーンカーを先頭にした街頭行進の写真まで載っている。でも、ここでは象とはどういうことをイメージにしているのだろうか。しかも標識では、それが禁止マークの輪の中に置かれている。いくら考えても思いつかない。街角の宣伝標識とは、簡単明瞭なはずだから、それを思うほどにもどかしい。

いうまでもなく、答えがないとしたのは、あくまでも自分のことだ。まったく気づいていないところに、意外にシンプルな理由があるに違いない。ご存知の方、どうぞ教えてください。(撮影: Evelyn)

This picture is brought to me by one of my students. It is for a campaign for not walking while smoking. However, why there is a white elephant? I do not have an answer for it.

子どもをタバコから守る会・愛知

内田さんという方からコメントをもらいました。「だめだゾウ」にオチがあるとのことです。これでなぞが一つ解けました。感謝。

2007年5月15日火曜日

プリザーブドフラワー


大学の同僚の一人は、郊外に家を持ち、大自然のなかから花を取ってきては乾燥させて飾りにしている。それが好評を受けているので、友人にもよく分けてあげている。そのようなきれいな花を日本語でどう呼ぶべきかは、ゆっくり考えたことがない。説明しなければならない場合でもあれば、「乾燥した花」と、英語の言い方をそのまま日本語にするだろう。

しかしながら、テレビを見てみると、思わぬ言い方を習いました。プリザーブドフラワーだそうだ。とりわけ母の日にあたる先週の週末あたりは、頻繁に話題に上り、それこそ高級なデパートとかで扱われるような、高級なイメージが伴うものらしい。

それにしてもしっくりしない表現だ。英語の言葉を日本語の語彙にするというようなケースなら、いろいろとあるのだが、このような、英語としても熟していない、場当たり的な表現をそのまま外来語として用いるというのは、あまり芸がなくて、速急ではなかろうか。こういう表現に上品さを求める、感じ取るという感覚には、ちょっと追いつかない。

花といえば、生け花。そのような豊かな伝統をもっている日本語だけに、もうすこし気の利いた表現が生まれないのだろうか。

Dry flower. In Japan, it is sold in an elegant department store and has a name of "preserved flower". To my mind, this is rather an extreme example of Japanese lown words.

JPFA

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