2007年6月14日木曜日

感情労働

まったく聞きなれない言葉だが、「感情労働」が議論されているそうだ。いわば「体力労働」「知的労働」に対するもので、雇用関係においての、体力あるいは知力を賃金の代償として支出する代わりに、あるいはそれと共に、個人的な感情もそれに数えいれる、との考え方である。フライト添乗員をはじめ、接客業の仕事にはこれがつき物だとされる。そして、教師、国家公務員など公の場にいる人間は、仕事の立場から自分の感情を押さえて勤めなければならないというありかたが、この議論の引き金となる。

労働という概念は、そもそも西洋的なものであり、ここに感情を取り上げるというのもアメリカの学者が言い始めたものだとのこと。しかしながら、実感としては、個人というものを無にして仕事に携わり、言葉遣いをまったく非日常的なものにしてまで、客にサービスを提供するという姿勢を明らかにして役目に向かうという、一種の誇張した仕事の倫理は、日本でこそ強く、広くみられるものだ。短期間の日本訪問などとなれば、そのような光景がとりわけ目に焼く。そのようなまるで仕事場における自身の晴れの姿とでも受け取り、それを誇らしげに見せようとする振る舞いは、幾度となく「日本的だ」と感心したものだった。それに対して、カナダとかのようなところでは、そのような努力をしない、あるいはそれを追求しない、という姿勢だ。あるいはそれが日常ではないだけに、西洋の学者がそれを敏感に感じとり、意識敵に取り上げた、ということだろうか。

知識も体力も、なにかを代償にもらって、他人のために使ってあげる、ということは、労働という概念の基本だろう。その意味では、感情とはいたって個人的なもので、なにかとの交換には抵抗を感じるだろう。これを労働に組み入れてしまうと、とたんに変質をもたらす。さらに言えば、消費者の立場から言えば、他人の感情まで消費しているというのは、いったいどういうことだろうか。

This is a Japanese translation of the concept "Emotional Labour". One has to say that there is a much stronger working moral or style to hide personal emotion in a working position in the Japanese society.

労働の科学

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